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トップ > スペシャルページ一覧 > 特別トークイベント高田文夫×西村賢太

誰も書けなかった「笑芸論」
森繁久彌からビートたけしまで
刊行記念
特別トークイベント
高田文夫×西村賢太

誰も書けなかった「笑芸論」
森繁久彌からビートたけしまで
刊行記念
特別トークイベント
高田文夫×西村賢太

誰もが笑っていた、あの時、あの瞬間! その裏側では何が起こっていたのか!
高田センセイとその弟子!? 芥川賞作家・西村賢太さんが、ギリギリの裏話満載で語り明かす、爆笑トークショー!

高田
こんにちは。どうも、スザンヌと別れた斉藤です。
(会場爆笑)
西村
ハッハッハッ。どうも西村賢太です。よろしくお願いします。
高田
私が高田文夫です。
西村
やっぱり僕は高田センセイに会うと、いまだに緊張して。少年時代にラジオで聴いていたあの高田センセイだって思うから。
高田
私もこいつに会うといまだに緊張するんですよ。いつ殴られるのかなって思って。
西村
いやいやいや。
(会場爆笑)
高田
西村さんは、いまいくつ? 47?
西村
はい、48になります。
高田
この年は、他に浅草キッドの玉ちゃん(玉袋筋太郎)とか、伊集院(光)、松村(邦洋)君なんかもそうなんだよね。みんな同い年で。KK世代でしょ。
西村
そうなんです。
高田
そういえば最近、清原を見かけないね。
西村
最近いろいろとあったみたいで……(笑)。
高田
清原も車、売っちゃったってね。
西村
ハッハッハッ。
高田
どうでもいいよ、人ン家の話なんかね。こういうどうでもいいこと喋って、これから1時間ごまかすんですから。
(会場爆笑)
高田文夫とゆかいな弟子たち
高田
今日はこういうイベントで話をしてもらおうと思って西村さんに来てもらったけど、ちょうど君らくらいがたけしさんの「オールナイトニッポン」のまん真ん中だよね。
西村
そうです。まさにそれを聴いていて。始まったのは中学2年の時ですから。ど真ん中だったんです。
高田
そうなんだよね。今日もこの八重洲ブックセンターの方がね、震えながら挨拶してくれて、「私も島根で聴いておりました~」なんてね。
(会場爆笑)
西村
そうなんですよ。その人も僕と同じ40代で、汗をふきふき緊張しながら挨拶してましたもんね。でも、高田センセイの前に出ると、やっぱり緊張しますよ。
高田
「ビートたけしのオールナイトニッポン」は1981年に放送が始まったんだよね。
西村
そうです。僕の場合はたけしさんもあったけど、これは本当に、高田センセイ目当てで放送を聴いていましたから。
高田
君はクレバーだね~。
(会場爆笑)
西村
ハッハッハッ。
高田
君とクドカン(宮藤官九郎)は、本当にクレバーだね。クドカンも「高田文夫に会いたかった、なりたかった」ってテレビで言ってたからね。でも、そういう人は、やっぱり物書きになるのかね。
西村
そうなんですよ。高田センセイに憧れると、書く方で勝負してやろうって気になるんですよね。
高田
あと、亡くなったナンシー関なんかもそうだったね。青森から毎週、ハガキをくれてね。当時、女子高生でしょ。女の子のリスナーって珍しかったし、書いてあるネタも面白かったから覚えていますよ。ナンシー関が有名になってから会ったことがあるんだけど、その時も「高田センセイのファンです」って言ってきて(『笑芸論』176頁参照)。
西村
あと、さくらももこさんですよね。
高田
そうそう、ちびまる子ちゃんね。
西村
たけしさんに憧れた人は、たけしさんに弟子入りしようと。でも、高田センセイに弟子入りってやり方がわからなかったんですよ。もし、僕にも行動力があれば、今頃、ベン村さ来さんくらいの放送作家にはなっていたかもしれないんですけどね。
高田
誰も知らないよ(笑)。
西村
ハッハッハッ。今ので笑ってる人は相当なマニアですよ。
ビートたけしとの出会い
西村
でも、凄いなと思うのが、当時、昭和56(1981)年の時点で、すでにセンセイは「放送作家界の文豪」という渾名を自分に付けてましたよね。
高田
そうそう。テロップ入れてCMやってたもんね。「早い・安い・うまい」っていうコピーつけてね、「放送作家界の文豪・高田文夫」って。それが、まだ32歳ですからね。
西村
すごいですね。
高田
当時、オレが32で、たけしさん33歳だから。でも、その1日前までは、二人とも貧乏だったんだから。
西村
そうだったんですか!
高田
たけしさんは暇だったし。オレの方は、仕事はいっぱいあったけど、放送作家だからテレビに出るとかじゃなくて書くばっかりで。ポール牧っていたでしょ。最近、見かけないけど。
西村
ハッハッハッ。笑ったら怒られますね。
高田
関武志さんとコンビを組んで、「コント ラッキー7」というのをやっていて。
西村
そうでした。
高田
当時、ポールさんは中野に住んでいたんです。それで、毎晩、深夜に台本を書いて、それをポールさんのとこに持っていって。朝、ポールさんと関さんとコントの練習して。そのまま昼の12時からテレビで放送されるんですよ。それを毎日やってたの。他にも、青空球児さんっているでしょ、「ゲロゲーロ」(高田さんものまねをまじえて)っていう。その頃に、ポールさんと球児さんに言われたことがあって。
「高田ちゃん、同世代の人と『笑い』やりたいの?」って。
二人とも、私よりちょっと年上だから。やっぱり同世代とやりたいっていう思いは自分の中にもあってね。だったら「浅草にひどいのがいる。漫才師なんだけど、ふだんはヤクザ脅して呑んでる」って紹介されてね。イヤでしょ、そんなの(笑)。
「ひとりがサブローといって、ひとりはたけしっていうんだ」ってね。
西村
それが石倉三郎さんとたけしさんですか!
高田
そう。それで浅草に行って。そこで見たツービートが凄かったね!
西村
あの、きよしさんがですか(笑)。
高田
そうそう、きよしさんの黙り具合が。
(会場爆笑)
高田
いっさい喋らないんだから! ほんとに田舎もんですからね。田舎くさくて。それをたけしさんがガンガン突っこむでしょ。「ババァは死ね!」とかね。それがもう面白くて、面白くて。
西村
それが最初なんですか。やっぱりその時に見ていて、この人は絶対成功するなって思いましたか?
高田
いや、それよりも尖り過ぎていたから、センスが。最初は、面白いけどこの人をどうやったら世に出せるのかなって悩んだよね。それで、とりあえず個人的に会ってみようって考えて。たけしさんに仕事だって嘘ついてNHKに来てもらってね。「インタビューです」って、オレが話聞いて。その後、じゃあ呑みに行こうかって。
西村
それで、初めて会話したんですか。
高田
そう。宇田川町交番の裏の焼鳥屋に夕方4時くらいに入って、午前2時くらいまで、ずーっと話してて。最後に「明日、何してる?」って、また会う約束して。もう恋人同士じゃないんだから(笑)。
西村
凄いな。それからは、ほぼ毎日会っていたっていう話ですよね。
高田
そう、西村さんと玉ちゃん(玉袋筋太郎)みたいなもんですよ。
西村
ハッハッハッ。その頃、もうたけしさんも高田センセイの新宿の家に来ては、毎日、子供のカレーなんか食べてたっていう(『笑芸論』130頁参照)。
高田
そうそう、ミキさんっていう奥さんと一緒にね。人ン家に勝手に上がってきて、勝手にご飯食べて帰っちゃうんですから、ひどい話ですよね。うちの子なんか、「あの漫才師が僕のカレー食べてった!」って言っていて。
西村
ハッハッハッ。その頃は、もうセンセイは売れっ子作家だったんですよね。
高田
そうだね、三波伸介さんの作家なんかをやっていたから。「スターどっきり(秘)報告」なんかも第1回からやってたしね(『笑芸論』87頁参照)。
西村
そういえば、三波伸介さんの「凸凹大学校」に、たけしさんを最初に出したのがセンセイですもんね。
高田
そうそう。「凸凹大学校」でオンエアの時間に間に合わないときなんかに、オレが俳句の先生役で出演してね。それ以来「高田センセイ」って、カタカナのセンセイで呼ばれるようになったんですよ。
西村
当時の「凸凹大学校」は全国放送だったんですか?
高田
そうだよ、12チャンネルだからってなめんなよ(笑)。TOYKO MXテレビじゃないんだから。
(会場爆笑)
「東京」の笑いの変遷
高田
やっぱり、たけしさんが出てきて、それまでのテレビの笑いとバラエティの流れが変わっちゃったよね。山藤章二さんも言ってたけど、「たけしが出現して、漫才がフィクションからノンフィクションになった」ってね。当時、たけしさんと張り合えたのは一人だけ、島田紳助だけだったね。
西村
セント・ルイスさんも、あの頃はたけしさんと比較されたりしてましたね。
高田
そうそう、セント・ルイスがたけしさんより先に売れてね。「田園調布に家が建つ」っていうネタで。彼らが若手ではたけしさんより先に世に出ていった。実は、その前まで、東京の笑いはスッカスカだったんですよ。もう誰も見向きもしなかった時期があったんです。
西村
そうなんですか。
高田
さらにその昔は、コロムビア・トップ・ライトがいて、てんやわんやがいて内海桂子・好江がいて、昭和41、42年頃は東京に漫才ブームがあったんだけど、そこでバーッと出てきた後は、何も生えず、毛も生えずという感じで。
西村
じゃあ、その間を埋めていたのは、漫才ではなくコントということになるんですか?
高田
そうかもしれないね。ただ、漫才でその間をつないだのは、かろうじて三球・照代という漫才師がいただけですね。
西村
そうだったんですか。
高田
最初のころは、三球さんがギター持って、照代さんがウクレレ持って漫才してたんですよ。オレは学生時代見てたんだけど。それがテレビに出るようになって、「地下鉄はどこから入れたんですかね~?」なんていう品のいいネタで。知ってる?
西村
はい。
高田
昭和52、53年頃にじわっと売れて。それ以外で振り返ると、もう「ゲロゲーロ」しかいないんだから(笑)。
西村
ハッハッハッ。
高田
その時に、さっそうと出てきたのがセント・ルイスだったんです。新劇から転身した漫才師なんですけど、みんなビックリしたんです。漫才なのに知的なイメージで出てきたでしょ。
西村
ものすごい喋りが速かったですよね。
高田
そうそう。「出世の三条件って知ってるか? 義理と人情、お中元!」なんてね。
西村
ポンポンポンと、テンポがよくって。
高田
それで、漫才がこういう形でも売れるんだって気づいたんだよね。それまで大衆芸能っておばちゃんたちのものだったから、若い人にも売れるんだってね。それはツービートにも追い風になった。それまでの漫才で使われなかったような、高校生や大学生が学校で使っているような言葉を取り入れるようになったんです。
西村
そこからの流れなんですか!
高田
だからセント・ルイスからツービートで、笑いの流れが一気に変わったよね。同じ時に、大阪には、やすし・きよしを筆頭にして、ザ・ぼんち、B&B、それに紳助・竜介が出てきて。これに東京のセント・ルイスとツービートを入れて、あの「MANZAIブーム」が起きたんだよ。やっぱり数がそろって塊ができないとブームは起きないからね。
西村
なるほど、そういうことだったんですか。やっぱりすごい時代ですね。
高田
たとえば春風亭小朝が売れたときは、彼に対抗できる他の噺家がいなかったでしょ。小朝だけが「横丁の若様」って呼ばれて頑張っていて。でも、2000年に入ってからの落語ブームのときは、立川志らく、談春、春風亭昇太、喬太郎ら数がいた。
西村
才能が集まらないとダメなんですね。あらためて時代の流れとしてみると、たけしさんは、ちょうどMANZAIブームが下火になり始めた頃に、「オールナイトニッポン」の放送を始めていますよね。それは、たけしさんにとって完璧な流れだったんじゃないかと思うんです。
高田
そうだね。
西村
深夜の若者層もそこで取り込むことができた。
高田
高校生や大学生、それに今日の書店員さんみたいな人たちもね。それまでの「笑い」を聴いていた人たちとは違う、若い人やインテリ層にまで広がっていった。
西村
そうですよね。水道橋博士が僕より5歳くらい年上なんですけど、当時、二十歳くらいの博士と中学生の僕が同じラジオを聴いて、一緒になって楽しんでるわけですから。
高田
作ってる側からすると、男の子だけ楽しめればいいという思いはあったんだけどね。あと、たけしさんの東京っぽさを意識して作ったというのもあるんだよね。
西村
そうだったんですか。
高田
あの頃、テレビをつけると漫才はほとんどが「なんでやねん」って大阪弁でしょ。それに対抗してこっちは東京弁でやろう、その方が面白いからって。だからたけしさんは、「オイラはさ~」(高田さんものまねをまじえて)って言う。
西村
ハッハッハッ。センセイ、たけしさんのものまねも、すごく似てますね。
高田
だから、足立区生まれのたけしさんが東京の下町言葉、渋谷区生まれの私が山手言葉で間の手を入れるというスタイルができたんだよね。たけしさんが、「かいぼっちゃってさ」なんていうと、オレが「たけちゃん、かいぼるってなに?」なんていうやりとりがあったりして。だから、放送開始の頃は、「東京の下町出身ですごいヤツがいるぞ!」って噂になったんだってね。それが「コーマン」とか言っちゃってるんだから(笑)。
西村
ハッハッハッ。
高田
いいのかこんなこと放送しちゃって! って噂になって。あとから聞いたんだけど、この番組のせいで、実はクレームは相当あったらしいんだよ。でも、後にニッポン放送の社長になった亀渕(昭信)さんが、当時、編成局長で、その人がたけしさんと高田さんには好きにさせろって、ずっと守ってくれたんだよね。全部、責任取ってくれた。しかもクレームを我々の耳に、絶対入れなかった。
西村
素晴らしい人ですね。担当編集者に聞かせてやりたいです(笑)。
高田
それを知っちゃうと、たけしさんもオレも意識しちゃうからね。だからのびのびできたんだよ。
オールナイトという破壊と創造
西村
そういえば、「たまきん全力投球」っていうコーナーありましたよね。
(会場爆笑)
高田
そうそう。当時、田原俊彦、野村義男、近藤真彦の三人が、「たのきんトリオ」っていう、人気絶頂のアイドルで。それが木曜日の7時から「たのきん全力投球!」っていう番組を始めたんだよ。「オールナイトニッポン」も同じ木曜の放送でしょ。一文字替えれば、あら不思議「タマキン全力投球」になるという。
西村
ハッハッハッ。最高でした、あのコーナー。
高田
しかも、内容が、一人エッチのノウハウを募集するというコーナーで。そこに山ほどハガキが来ちゃったんだから。
西村
ハッハッハッ。
高田
「ローリング・サンダー」とか言っちゃって、もうこんな方法や、あんな方法があります! なんて。
西村
ハッハッハッ。そうです、そうです! 実際にできないことも多かったですよね。背中の皮を前にもってきて、被せて……、なんていう。
高田
そうそう、やっぱり男の子はこれだなって思ったね。こっちはそれを狙っていたから。あとは、ラジオだからの芸ですよね。絵が見せられないから、言葉だけ伝えて、それを想像させるという。
西村
想像をかき立てられました。
高田
あの「オールナイトニッポン」は、第1回の放送だけ録音なんですよ。さすがに放送局もこわがっちゃって。
西村
へー。
高田
ちょうど、1980年の暮れにたけしさんと放送局に呼ばれて。「てきとうに喋ってくれない」っていうから、放送されるかどうかもわかずに、たけしさんと喋ってね。終わったら収録に立ち会ったディレクターが、「はぁ~」って溜息をついた。そしたら元旦から放送するっていうんで、オンエアを聴いたんだけど、ほとんど曲だったね。喋りはカットされていて(笑)。
西村
曲ばっかりだったんですか!
高田
ほとんど、放送禁止用語だったんだってね。その頃は、我々もぜんぜん知らなかったから、そういうこと。メッチャクチャに喋って。
西村
伝説ですね、それは。
オールナイトとコロンブスの卵
高田
あの「オールナイトニッポン」は、偶然から始まったからね。ニッポン放送の人が、オレのところに来て、「高田さんの友達で、ツービートっているじゃない。あれの背の低い方、よく喋るほう。MANZAIブームでテレビ出てるけど、ラジオってお金ないから、3ヵ月だけ、あれ一人だけ使えないかな?」って言われて。
西村
はい。
高田
漫才師を一人だけ使えないかなって。それは、当時、本当にビックリした。それまで、テレビでもラジオでも、B&Bとか、ザ・ぼんちとか、コンビは必ず両方ともセットでしょ。それを片方だけってありえないことだったんだよね。でも、それが放送業界にとってコロンブスの卵的な発明になった。とりあえずその日は、「今日は、持ち帰って考えてみます」とだけ答えて。それで四谷にあった太田プロへ行って、社長とフクシャ(副社長)に相談して。こういうわけで3ヵ月、「オールナイトニッポンでたけしさんだけを使いたいって言ってるんですけど」って聞いたんだよね。
西村
そうだったんですか。
高田
それでフクシャもしばらく黙ったまま考えてて。それから、「わかりました。たけちゃんを3ヵ月だけ貸しましょう!」って。「ただし、条件が一つだけあります。たけちゃんはシャイだから、人見知りするから、高田さんがそばにいてくれるなら、ニッポン放送に3ヵ月だけお貸しします」っていうことでOKが出た。
西村
すごい話ですね~。
高田
本の中にも写真があったでしょ。たけしさんとオレが見つめ合って手を握っている(『笑芸論』123頁参照)。
西村
ハッハッハッ。
高田
そんな写真じゃないよな。恋人同士じゃないんだから。それで1981年の元日ですよ。オレもさっき言ったみたいに、放送されるのかどうかわからなかった「ビートたけしのオールナイトニッポン」が始まった。そういえば、オレもその日に初めて知ったことがあるんだよ。新聞のラテ(ラジオ・テレビ)欄を見ていて、そこに「ビートたけしのオールナイトニッポン」って書いてあるんだよ! 
西村
はい。
高田
その時初めて、あの人「ビートたけし」っていう名前なんだって知ったんだよ。
西村
え~っ! 本当ですか!
高田
それまでは、ツービートのイジメる方とかさ、ツービートのよく喋る方とか、そういう風に呼ばれてた。もちろん「たけし」っていう名前は知ってたけど、それが「ビートたけし」っていう名前だったのは知らなかったんだよね!
西村
じゃあ、「たけしさん」という呼び方もあまり知られていなかったんですか。
高田
そうなんだよ。だから、あれが「ビートたけし」という名前が活字になった最初だと思うよ。だって毎晩呑んでたオレが知らないんだもん(笑)。
西村
ハッハッハッ。あらためて凄い話ですね!
深夜の名コーナー!?
高田
どうせ3ヵ月だからって東京弁でガンガンやってたんだよね。あと、その前までは、オレは歌謡曲番組の放送作家をよくやっていたから、あの当時、歌番組がいっぱいあったでしょ。
西村
ありましたね。
高田
桜田淳子、山口百恵とか小柳ルミ子とか五木ひろしとかね。だから当時、人気だった歌手の裏話をいっぱい知ってるわけ。それを呑むたびにたけしさんに聞かせてたわけ。○○○○があんなだったとか、××××はこんなことがあったとかね(笑)。
西村
ハッハッハッ。
高田
もうゲラゲラ笑って。それをたけしさんが想像力で話を膨らませちゃうから。それで始まったのが、あの名物コーナー、村田英雄の「デカアタマコーナー」なんですよ。
西村
ハッハッハッ。そうなんですか。大ブームになりましたもんね。
高田
そうそう。でも、それがあって、当時ちょっと人気低迷していた村田英雄さんが一気に再ブレイクして、CMもバンバン出たしね。村田さんにも「人生、いい夢見させてもらった」って言われたんだから。
西村
そうだったんですか。
高田
当時、村田英雄といえば、歌謡界のドンですよ。神様みたいなもんだから。それをさ、たけしさんとオレが深夜にゲラゲラ笑ってるんだから。また、リスナーがない事、ない事を投稿してくるでしょ。「昨日、僕は村田に会いました……」だって。嘘つけっていう(笑)。
西村
ハッハッハッ。想像で勝手に書いてきちゃうから。
高田
それが話題になって、ついに週刊誌の記者が書いちゃったんだよ。「村田英雄がこんなことしたと、たけしが言っている」みたいに。
西村
うわ~、それはまずいですね。
高田
そうなんだよ。当時の歌謡界はキビシイ世界だったんだから。ましてやその中のドンですよ! その人の耳に入っちゃったんだよね。あれは……2月だったかな、「たけしくんというのが、私のことをいろいろ取り上げてくれているそうだが、つきましてはぜひお会いしたい」なんて言われてね。
西村
ハッハッハッ。最悪ですね。
高田
村田さんのところに呼ばれて。いやだな~、と思ったね。どうなっちゃうんだろうなぁ~って。それで村田さんのところにたけしさんと二人でお邪魔して、部屋に入ったら、本当にね、村田英雄の頭がでかいんだよ! 米助の「となりの晩ごはん」のおしゃもじみたい。
西村
ハッハッハッ。 (会場爆笑)
高田
それでさ、村田さんがジッと我々を見据えて、「いや~、今日は来てもらって悪かったね。君たちは何かこの、男・村田のことを取り上げてくれているようだね」っていうから、二人でかしこまってね……。
西村
ハッハッハッ。面白すぎますよ。センセイ作った話じゃないですか。
高田
ホントなんだよ! この緊張感たるや! その後、村田さんがたけしさんとオレをキッと睨みつけて、「いいか、言っておくぞ。たけし、お前は漫才師だ。高田、お前は作家だ。いいか、男・村田、俺は歌手だ。おたがい仕事のジャングルが違うんだから! 俺のジャングルに入ってくるな!」って。
西村
ハッハッハッ、ハッハッハッ!!
(会場大爆笑)
高田
もう、たけしさんもオレも椅子からズルッと落ちそうになって。ジャングルって、ターザンじゃないんだから。でも、笑いそうなのを必死にこらえて、「そうです、ジャングルが違います」って、たけしさんとオレで神妙な顔しながら。
西村
ハッハッハッ、ハッハッハッ!!
(会場大爆笑)
高田
そしたら村田さんが「これからも、大いにやってくれたまえ」だって。もう最高で! コーヒー飲むときも、コーヒーに砂糖とミルクと入れて、ぐるぐるかき混ぜて、一口飲んだ後に、「たけしくん、やっぱりコーヒーはブラックにかぎるな」だって。
西村
ハッハッハッ、ハッハッハッ!!
(会場大爆笑)
高田
また、必死に笑いこらえながら二人で「はい、ブラックがおいしいです!」だってさ。これもその後にラジオで喋ったらうけたね。
西村
ハッハッハッ、ハッハッハッ!! うれしいです、生でオールナイトニッポンを聴いているようで。
高田
それでちょうど3月になって、我々もそろそろ放送終了だなって思ってた。その時に「夕刊フジ」で小林信彦さんが、このオールナイトニッポンのことを取り上げてくれて。「今、深夜に大事件が起きている。日本の文化が変わろうとしている。ビートたけしのオールナイトニッポン、もうすぐ終わるようだから今のうちに聴いておいた方がいい」って書いてくれた。
西村
へぇ~。小林信彦さんだったんですか。
高田
それがきっかけで、サラリーマンもオールナイトニッポンを聴いてくれて。今度は、放送局もこれは続けなきゃダメだってなってね! そんなこんなでニッポン放送から「4月からもお願いします!」って正式に依頼があって、気づいたら10年続いていたんだよね。
西村
ずっと聴いてました。素晴らしいですね。
高田
笑いの歴史、文化がそこで変わったもんね。私がその前から携わっていた時代と、たけしさんが出てきた後とではね。そこでいろんな意味でレベルが上がりました。
西村
そうですね。
高田
そろそろ時間なんだけど、たけしさんのことだけ話してもこれだけ面白いけど、本では森繁さん、三木のり平センセーや青島幸男さんや三波伸介さん、いままで出会った喜劇人のこと全部書いてありますから、よかったら読んでください。
西村
ご本も面白かったです、本当に。
高田
どうする? この後は鶯谷の「信濃路」にでも流れるか?
西村
行きますか?
高田
やだよ、帰るよ(笑)。
西村
ハッハッハッ。
高田
今日は、どうもありがとうございました。
西村
こちらこそ、ありがとうございました。

2015年3月19日(木)
八重洲ブックセンター本店 8階ギャラリー