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スペシャル鼎談
真藤順丈×塩田武士×伊兼源太郎
「いま」と「小説」。

“平成最後の年”に人間と社会のありかたを問う三作が発表された。『歪んだ波紋』(塩田武士)、『巨悪』(伊兼源太郎)、『宝島』(真藤順丈)。同時期にデビューし、同世代の三人が、いま、何を背負い、何に挑もうとしているのかを聞いた。

現実の曖昧さを小説で埋める
──
『歪んだ波紋』はどのように構想されたのでしょうか。
塩田
以前、新聞を読んでいたら、ある市役所の臨時職員がゲームで世界一になった──というのは噓だった、という訂正記事を見つけたんです。でも、自分も記者クラブで発表があったら、聞いた通りに誤報記事を書いてしまっていただろうと思った。その方は海外のホテルで食べたものの写真をFacebookにアップしていたんですが、その写真をFacebookユーザーが検証して、すべて盗用したものであることが発覚したんです。Facebookという現代的なものと記者クラブという旧いものの対比がおもしろいなと感じ、誤報を分解していけば情報が曖昧になっている現代の断面を描けるのではないかと思った。担当編集者に相談したところ、誤報の誤を“後”という漢字に変えてみようという話になり、小説の仮縫いができました。
──
『巨悪』はいかがでしたか。
伊兼
今って正義と悪が曖昧になってきてる時代だと思うんです。犯罪が起きると、犯罪者をみんなで叩きますよね。犯罪自体は悪いことだけれど、それをひたすら叩く行為は正義なのか? という疑問が浮かんできて。一般市民だけでなく、警察や裁判官、検察も同じです。大阪地検特捜部だって、実績を上げるために証拠を改竄した。正義をつくるために悪事を働いたわけですよね。
 しかしそんな中にも、正義感を持って戦い続ける人たちは必ずいるはずなので、あえて検察、特に特捜部を描こうと思いました。特捜部が戦う相手は誰か──“巨悪”だろうと。巨悪とはなんだろう、と考えはじめたのですが、三、四年かかってもわからなかった。では悪とはなにか。物事の善悪は区別できるけれど、人間を善人、悪人には分けられない。あるときは善人だし、あるときは悪人かもしれない。そういう、一概に区別できない人間が巨悪をつくるんだ、という答えに辿り着いてから、この小説を書きました。
──
『宝島』着想のきっかけは。
真藤
沖縄には昔から強い興味があったんです。物心つく頃から、親の書棚に沖縄に関する写真集や資料があったので馴染み深かったし、作家になってからもダウジングのように調べたりしていました。日本で唯一の地上戦があった島で、琉球警察や戦果アギヤーといった土地固有のものが社会を動かしていた時代です。途方もない物語の鉱脈がそこにはあると感じていました。もう七年前になりますが、その鉱脈を自分の手で掘ってみたいと思った。講談社で次に書くものは総合小説的な、すべてが詰まったものをやりたかったので、そのタイミングで沖縄の二十年史──アメリカの占領下に入ってから返還までを、生まれた子供が大人になるまでに重ねて描き出そうと思いました。
 書き始めてみると、現代にも地続きな沖縄の諸問題の重さに書く資格や覚悟を問われる局面にも見舞われましたが、彫刻をするみたいに頭の中で物語をどんどん削りだしていくと、あるとき自分の中の構想とリアルな史実とがうまく合致する瞬間が訪れるんです。実際の出来事を調べいって、そのとき市井ではこういうことがあってもおかしくないだろうと考えたことが、事系列や社会情勢にもぴったりハマる。そうやって虚実の折り合いがついたときに、これは小説になるぞ、といつも思いますね。
塩田
ぼくも『罪の声』のときにありました。たとえば江崎勝久(編集部註:江崎グリコ社長)さんが誘拐される二ヵ月前の「株式新聞」に「グリコの株上がる」という見出しがあり、その記事の一行目に「ロンドンの外人買い」という言葉が出ていたんです。グリコ森永事件の犯人は、「ヨーロッパへ行く」とか「この中に自分がいる」という挑戦状を警察に送っていました。さらに『罪の声』を書き始めたときに「ハイネケン誘拐の代償」という映画が公開されて、そういえばハイネケンも誘拐されていたな、と思って調べてみたら、江崎さんが誘拐される四ヵ月前の出来事だったとわかった。そういう偶然の一致が多く起きたときに、ロンドンの中華街に東洋人がいて、彼がオランダにわたって……という展開が浮かんだんです。アンテナをはっていたら、事実が磁石にすいつくみたいにすっと集まってくる瞬間がある。それが小説を書くおもしろさでもあります。今回の『歪んだ波紋』は、未来の現実がこの小説に寄ってくる可能性はありますね。
伊兼
『巨悪』のときは、まず過去の現実があって、その現実を突き詰めて考えたところ、いまの現実につながる道筋が見えた、という感覚です。
自由に書けて自由に読める
──
小説家を目指した理由は?
伊兼
二十七、八歳になったときに、ちょっと時間が作れる部署に異動になったんです。そのときに藤原伊織さんの『テロリストのパラソル』を読んで。
塩田
おぉ、一緒や! ぼくも人生それで変わったんです。
伊兼
同じですね、記者同士(笑)。読んだ時に、視界がぱっと開けた感じがしたんです。救われた! という感覚。それで不遜にも、ぼくも小説をやってみたいと思いました。すぐには仕事を辞めるという踏ん切りはつかなかったんですけれど、次にとんでもなく忙しい部署に異動になるという内辞を受けて、これは小説家か記者か、という人生の岐路に立たされたと感じました。それまで自分の時間が持てない生活を続けていて、この先の人生も同じように続いていくんだろうな、と思ったときに、小説家を選べば人生はまだまだおもしろいことがあるかもしれないな、と。
塩田
ぼくはそもそもエンターテインメントの世界で生きていこうと思っていたんです。十七歳で事務所に入り漫才をやってスベり倒した。台本をずっと書いていたので、関西の小劇団をまわって脚本の勉強をしました。人を楽しませるということに人生を捧げたかった。でも、自分は人と一緒に何かをつくるということにすごくストレスを感じることにも気づいた。どうしたらいいか悩んで、いったん大学に進学しました。そこで自動車教習所の待合室に、『テロリストのパラソル』の文庫が置いてあったんです。読み始めたらもう、止まらなくて。登場人物の行動原理が格好よくて、セリフが格好よくて、友情もあって、男の好きなものが全部入っている。作中、ぱっと場面が学生運動のシーンに変わるんですが、その学生たちの熱さと、同じ大学生の自分の現状を比べて、モラトリアムで大学に入っている人間からすれば、すごく戦っているぞこいつら! と思いました。「私たちは世代で生きてきたんじゃない。個人で生きてきたんだ」というセリフもハマって、気がついたら学科の授業が終わっていたんです。そのまま教習所のベンチに座って最後まで読みました。あった! これだ! と発見した日ですね。自分一人で好きなように書けるし、持ち運びやすいし、自分のペースで楽しめる。もうこれしかないと思って、その日から小説を書き始めました。しかしなかなか長編小説を一本書き上げることができなくて、これは圧倒的な経験不足によるものだと思い、小説を書くためにまず新聞記者になろうと思ったんです。
真藤
ぼくは映画が主食だったので、映画監督を志望していました。大学時代にグループで自主映画を撮ってたんですが、卒業すると次第に人がいなくなり、資金繰りもきつくなって。撮影も脚本も編集も担ってたんですが、撮り直しがきかなかったり、追加撮影したくても女優がフケちゃったりとか、そういうことだらけで。塩田さんとも似てますが、撮影も脚本も編集も全部自分一人で思うようにできるということで、おのずと小説の執筆に移っていきました。
 映画作りのなかで一番好きのが編集だったんです。小説でいうと編集は推敲ですね。脚本は下準備や取材で、撮影が執筆に当たると思うんだけど、脚本を書いててもぼくは科白よりト書きが膨らんじゃって。脚本におけるト書きは短くてシンプルなほどいいんだけれど、ぼくはト書き、つまり描写が好きだったから、小説のほうが執筆の実感を強く得られる。大学が国文学部だったので、秀作みたいなものをそれまでに書いたこともあって。二十七歳くらいから三年ばかし投稿生活を送っていて、三十歳過ぎに新人賞を獲ることができました。
活字のバトンをつないでいきたい
──
いま、この時代に小説を書く意味はどこにあるのでしょうか。
真藤
モチベーションは多々ありますが、自分がもらってきたものを受け渡したい、という思いはわりかし強いです。脈々と続くエンタメの資源を途切れさせたくない。小説って言ってしまえばなくてもいいものじゃないですか。だけどその無駄が、さっき伊兼さんがおっしゃっていたように、読んだ人の道を拓くこともある。ここにはない風景を見せてくれて、模倣や背伸びをさせることで成長を促すこともこともある。世界中の様々な生き方や多様性を伝えることで、他者への想像力を鍛えていく。無駄や余剰こそが、ときには唯一無二の人間の滋養になると思う。ぼくだってあの小説やこの小説がなかったら、今ここにはいない。あの物語の続きにふれたいがために乗りきれた夜も、どうにか起きられた朝もありました。
伊兼
真藤さんがおっしゃっているように、バトンを受け渡したいという気持ちはありますね。自分自身が人生を変えられた経験があるので、こんなすごいものが世の中にあるんだよ、ということを知ってほしい。ぼくら世代がバトンを止めちゃったらまずいと思うんです。三十代、ましてや二十代で小説家を目指している方は、ぼくら世代に比べてかなり少なくなっているでしょうから。気概みたいなものは、ぼくらの世代はまだ持っているんじゃないですかね。あと、小説は時を軽々と超える。ぼくが『テロリストのパラソル』を読んだのは、発売して十年経ってからなので、そういうエンターテインメントは他になかなかないんじゃないかと思うんです。今はタイムリーに情報が更新されていくから、ひとつのことをじっくり考える時間が少なくなっている。『巨悪』『歪んだ波紋』『宝島』の三作に共通するのは、ちょっと難しいことをエンタメに昇華して、どうぞ楽しんで下さい、と読者に渡しているところだと思うんです。本を読んでいる間は、物語の流れに沿って思考せざるを得ないから。
塩田
活字は情報の圧縮量が圧倒的なんですよね。小説一冊を二時間で映像化するのは不可能ですから。それほど深いものが書ける。いま数多くあるエンタメの選択肢のなかで、物語の世界にもっとも深く連れていけるのは小説だと信じています。『騙し絵の牙』の取材である人に言われたんです。「行間を読むというのはどういうことかわかるか」「活字を読んでいるときに、ふと自分のことを考える瞬間がないか?」と。その瞬間が行間を読んでいるんだと聞いた時に、うわぁすげぇな、と思った。伊兼さんもおっしゃっていたとおり、いまの社会は情報過多で、人は情報を受け取るのに必死になっている。そんな社会において、小説は読み手が時間を能動的にコントロールできるから、読みながら自分のことを考えられる豊かさがある。自分の経験と重ね合わせながら、自分のスピードで活字を読んでいけるというのはとても貴重な体験になってきていると思います。例えば今、十分の動画を配信したいときには、五分の動画を二本にしたりするじゃないですか。それほど人間は我慢ができないようになってきているんだけれど、そういう時代だからこそ、より深いところに連れていってくれる活字というメディアの価値が浮き彫りになるんじゃないかなと思っています。読み手が能動的にならなければ物語が入ってこない小説は、情報中毒の現代社会で唯一、ネット断ちして存在するメディアだと思います。
真藤
ネット断ちして存在できる、それはその通りですね。小説は再生プレイヤーが読み手の頭の中にあるから。好きなときに好きなだけリミッターを外して、どこまでもとことん物語の深みに入りこんでいける。
伊兼
活字の体験っていうのは、自分一人だけのものだなと思います。内容にここまでぐっと入り込めるのは、映像よりも活字じゃないでしょうか。例えば映画やネット動画の中に頭から爪先まで入り込めたような感覚って、ぼくにはないですね。活字ってシンプルだから、それゆえに強さがあるのかもしれない。
隠された大きなものに挑戦したい
──
三作に共通するのは、「いま」を打破してくれる英雄の存在かと思いました。みなさんにとってのヒーローとは?
塩田
坂本龍一さんと羽生善治さんです。坂本龍一さんは幼少の頃からずっと聞いています。同じ曲を聞いているわけではなくて、まったく違うテイストの曲が、ものすごい量あるんです。最新アルバムで「async」というのがあるんですけれど、これは非同期、というテーマで。これだけなんでもかんでも同期している世の中で、非同期、というテーマをもってこられるセンスもすごいし、インタビューを読んでいても、思考の末に曲を書かれているんだな、と思います。ジャンル分けができないから、CDショップでも置き場所に困るくらいだといいますよね。羽生善治さんもそれに近い所があって、決まった戦法というのがないんですよね。これは将棋の本質に近づかれているということなんです。二人に共通するのは、テクノロジーに興味があるところ。坂本龍一さんはYMOで新しい音楽を追求されていて、羽生善治さんはAIの本を書かれたりしている。ジャンルにとらわれず常に新しいものを取り入れる姿勢を、どうすれば小説家として吸収できるだろうかと考えています。
真藤
塩田さんと伊兼さんが元・新聞記者だというところで思ったのは、自明のものとして定着していることを疑わせる人物、世間に不正や欺瞞を気づかせることに命がけになれる人物がはヒーローだと思います。すると現代の英雄は、ジャーナリストや新聞記者ってことになりませんかね。
伊兼・塩田
いやいや……違うと思います(笑)。
真藤
あれ、的外れ? だけどあれだけモリカケ問題や公文書偽造、日報隠しなんかで官邸や首相を追いこんだのも、すっぱ抜いた記者がいたからじゃないですか。たとえ決定的な“蜂のひと刺し”にならなくても、隠された事実を暴いてくれる報道人は、待望されている英雄像に近いと思うんだけどな。
塩田
調査報道の大切さは確かにありますね。その記者が動かなければ真実が明るみに出ない報道はとても大切だと思います。ただビジネスにはなりにくい。いまはNPOでやったりもしていますが。これからは、特ダネの価値を変えることも考えていかなければいけない。いま「報道小説」というジャンルができるんじゃないかと思うくらい、ジャーナリズムは大事だと思っています。時代のヒーローとなるような記者を書けたらと思いますね。
伊兼
ぼくはヒーローを小説のなかの登場人物に求めています。いまの社会に対して納得いっていない人は少なからずいると思うんですけど、疑問に思ったときに、行動できる人を書きたいですね。森友問題も、何か変だな、と思って動いた記者がいたから明るみに出た。ヒーローはちゃんと芯があって動けるんだけれど、身体の中に空洞がある人がいいですね。何か衝撃を喰らっても、空洞があるからしなやかに受け止めて踏ん張ることができるから。この三作(『巨悪』『宝島』『歪んだ波紋』)の登場人物にも共通している気がします。お二人は、ご自身を社会派の作家だと思われていますか?
真藤
ぼくはまったくですね(笑)。今回はたまたまそういう要素も入りましたけど。ぼくからすると伊兼・塩田のお二方こそ、『巨悪』や『歪んだ波紋』とそれぞれの近刊で、硬派でガチな社会派の最前線に躍り出ているように感じます。
伊兼
ぼくはあまり自分を社会派だと思っていないかも……。どちらかというとミステリー作家かな。いや、でもどんでん返しは必ずしもなくても良いと思っているので、違うかもしれない……。何か問題が起きた時にきちんと向き合える人──恰好いい人間を書きたいんです。その人物を通して結果的に社会と相対している感覚です。
塩田
ぼくは山崎豊子や松本清張を読んできて、人間個人を描くことで社会に広がっていく小説には圧倒されます。大きなものに挑戦していきたいという気持ちがあります。社会に対する気持ち悪さ、みたいなものが執筆動機になることが多いですね。今回も誤報を分解して四編書いたときに、それまで出てきたものが磁石のようにくっついて、五本目がパッと思い浮かんだんです。リアリティがありながらもおもしろい物語である、というところから逃げずに言語化に挑戦していきたいです。
真藤
ぼくも、越えがたい壁を越えることには挑んでいきたい。書き手として地球上のあらゆる土地を踏んで、あらゆる巨峰を越えることを目指していきたいので、これからも“これは書けない”と仰ぎ見てしまうような巨大な題材への無力感を、執筆の最大の燃料にしていきたいですね。
著書紹介
塩田武士『歪んだ波紋』

塩田武士『歪んだ波紋』

昭和が終わり、平成も終わる。気づけば私たちは、リアルもフェイクも混じった膨大な情報に囲まれていた。その混沌につけ込み、真実を歪ませて「革命」を企む“わるいやつら”が、この国で蠢いている。「誤報」の後を描く切れ味鋭い物語五編。

真藤順丈『宝島』

真藤順丈『宝島』

英雄を失った島に、新たな魂が立ち上がる。固い絆で結ばれた三人の幼馴染――グスク、レイ、ヤマコ。生きるとは走ること、抗うこと、そして想い続けることだった。少年少女は警官になり、教師になり、テロリストになり――同じ夢に向かった。

塩田武士『歪んだ波紋』

伊兼源太郎『巨悪』

東京地検特捜部の検事・中澤と特捜部機動捜査班の事務官・城島。高校時代野球部のダブルエースだった二人は、ある事件をきっかけに「検察」の道を選ぶ。二人の前に立ちはだかる、政治家、企業、秘密機関――「消えた二兆円」。明らかになる現代の「巨悪」とは。

著者プロフィール

塩田武士 しおた・たけし
1979年兵庫県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。新聞社勤務中の2010年『盤上のアルファ』で第5回小説現代長編新人賞を受賞し、デビュー。2016年『罪の声』で第7回山田風太郎賞受賞、「週刊文春ミステリーベスト10」2016年国内部門で1位となる。他の著書に『女神のタクト』『ともにがんばりましょう』『崩壊』『盤上に散る』『雪の香り』『氷の仮面』『拳に聞け!』『騙し絵の牙』がある。

真藤順丈 しんどう・じゅんじょう
1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。他の著書に『畦と銃』『墓頭』『夜の淵をひと廻り』などがある。

伊兼源太郎 いかね・げんたろう
1978年東京都生まれ。上智大学法学部卒業。新聞社勤務などを経て、2013年に『見えざる網』(受賞時「アンフォゲッタブル」を改題)で第33回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビュー。他の著書に『事故調』『外道たちの餞別』『密告はうたう』『地検のS』がある。