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間氷期

斉藤詠一

学術調査隊を救助せよ! 
「世界最高地点の戦場」で、SEALsを待ち受けていたのは?
受賞作『到達不能極』のスピンオフ短編を特別公開!

1

 緑色に輝く山が、闇の彼方で揺れている。
 だがそれは、生命の緑ではない。夜空を背に雪を抱く峰々が、電子的に光量を増幅され、緑色の輪郭を浮かび上がらせているのだ。
 暗視装置の視界の中、世界は緑と白と黒のグラデーションだけで構成されていた。
 細かな砂礫に覆われた緩斜面を、小石を蹴り飛ばさぬよう登っていく。目の前で揺れる、大きなバックパック。後ろを振り返れば、同じようにバックパックを背負った男たちが列をなしているだろう。
 誰も、ひと言も口にしない。聞こえるのは、吹きつけてくる風の音と、スノーブーツが踏みしめる砂利の音、そして自らの息づかいだけだ。空気は明らかに薄く、呼吸は荒い。
 自分たちを除き、周囲に動く者の気配はない。それでも、すぐ前を行く男は声を潜めて言った。
「五〇メートル先の大岩で小休止」
 ありがたい。同じ台詞を、後ろに続く男へ伝える。小声が、さざ波のように縦隊を伝わっていくのが聞こえた。
 数分後、闇の中に一際黒くそびえる岩の下で、ジョン・デフォー二等兵曹は白いカバーを被せたバックパックを降ろして座り込んだ。
 周りで座り込む七人の人影の全員が、冬季作戦用の白い防寒パーカーとオーバーパンツを着用し、ウールニットのフェイスマスクで顔を覆っている。さらに暗視ゴーグルつきの白いヘルメットを被ったその姿は、さながら雪山の怪物のようだ。
 ゴーグルを外す。不思議なことに、暗視装置を通して見るよりも世界は明るく感じられた。見上げると、先ほどまで空を覆っていた厚い雲は強風に吹き流され、澄み切った漆黒の空に無数の星屑がちりばめられている。
 冷たい星明かりが、六〇〇〇から七〇〇〇メートル級の山々──中央アジア、カラコルム山脈の稜線を、ほの白く照らしている。視線を周囲へ向ければ、積雪は意外と少なく、所々に万年雪が残っている程度だ。植物の姿はほとんどない。森林限界をとうに超えた標高なのだ。
 右手に見える山塊の向こうには、南極を除けば世界二位の長さをもつシアチェン氷河が流れているはずだ。ここは、インド・パキスタン国境の紛争地帯──『世界最高地点の戦場』とも呼ばれる土地である。
 そんな天国とも地獄ともつかぬ場所へ、つい数十分前、デフォーたちアメリカ海軍特殊部隊『SEALs』は上空一〇〇〇〇メートルを行く輸送機からパラシュート降下してきたのだった。

「高度障害にかかっている者はいないな。各自、早めに食事をとっておけ」
 陸海空のすべてを活躍の場とすべく、シー・エア・ランドの頭文字からなる名を与えられた『SEALs』。部隊を構成する十のチームのうち、“チーム9”から今回の任務のため選抜された隊員八名を指揮する、ランディ・ベイカー大尉が言った。
 夜明けは、まだ遠い。夏季であるにもかかわらず、気温はマイナス三十度を下回っている。
 その中で、通常より味の濃い、高地用の戦闘糧食を袋から直接食べた。正直、旨いものではない。
 デフォーは思った。この程度の餌──とまでは言い過ぎか──を与えておけば、特殊部隊は疲れもせず延々と戦い続けられるとでも、上の連中は思っているのだろうか。所詮、兵隊など駒ということか。
「まったく、ろくでもない寒さの上、空気も薄いときた。泣けてくるね」
 フロリダ生まれのティム・ロバーツ上等兵曹が小声で文句を言うのが聞こえたが、それを無視するように、ベイカーは皆に告げた。
「そろそろ出発だ。調査隊のベースキャンプまで、北へ一〇キロほど。この先で、いくつか尾根と氷河を越えることになるが、見た通り積雪は少ない。ピクニックみたいなもんだ」
「最初から目的地に降りられれば楽なのにな。詳しい地形図がないなんて、今どき本当かよ」
 隊員の一人のぼやきに、ベイカーは律儀に答えた。
「衛星から写真が撮れる時代でも、よほどの僻地になると、完全なデータは揃っていない。そしてここはその、よほどの僻地というわけだ。……各自、装備をチェックしろ。ウェスト、先行してくれ」
 ベイカーに声を掛けられた隊員は、構えていた双眼鏡から目を離すと、バックパックを背負った。偵察を担当するアンドレア・ウェスト上等兵曹はバードウォッチングが趣味で、暇さえあれば鳥を探している。SEALsを志願したのも、世界中の鳥を見るためだというのがもっぱらの噂だ。
「鳥ばかり見てるんじゃねえぞ」
 そう言ってからかうロバーツは、目つきが鋭く犯罪者じみた凶相をしているので、悪気はないのだろうが聞いているほうは少々ひやりとしてしまう。もっとも、当のウェストはデフォーよりもずっと長く付き合っているからか、さらりと言い返した。
「偵察のついでに見てるだけだ。それより、お前のそれは今回役に立たないだろうな」
 ロバーツの前を開けた防寒パーカーから覗く、戦闘服の記章を指さす。それは電子情報処理の特殊技能資格を表すものだった。たしかに、こんな雪山での任務でサイバー戦など起こりようもないだろう。
 ──シアチェン氷河奥地に入ったアメリカ・日本合同の学術調査隊が、イスラム過激派勢力の脅威にさらされている。SEALチーム9派遣部隊は調査隊を守り、過激派を殲滅せよ。
 二日前の、カリフォルニア州コロナド基地。デフォーたちに、国防総省から来たという担当官は命じた。
 通常であれば、命令は部隊の指揮系統を通じて伝達される。国防総省の担当官が直接、彼らに命令を伝えるのは異例といってよい。それだけで、この作戦がかなり上の直轄であること、つまり面倒な仕事であることは想像できた。さらに不可思議なのは、その場にもう一人いた担当官の所属だった。その男は、NNSA──国家核安全保障局から来たとだけ自己紹介し、その後はずっと黙っていた。いったい、この件と核に、何の関係があるというのか? 今回のミッションは、妙なことが多い──。
 だが、深い思考を巡らせる贅沢は、行動中の特殊部隊員には許されない。まもなく全員が重さ二十キロ近い装備を再び背負い、緩斜面を登った先の尾根を目指して行軍を始めた。高度障害対策のため、ペースが遅めなのはありがたかった。
 ほとんどの者が、いつでも撃てるように、銃身の短いM4カービンを軽く構えている。M16に代わりアメリカ軍の制式自動小銃となったものだが、特殊任務用にスコープやレーザーサイト、サプレッサーなどをごてごてと装着したモデルだ。デフォーは、自分の銃に白いテープを巻いてカモフラージュを施していた。同様にしている者も多い。
「学術調査隊って、いったい何を調査してるんですか」
 歩きながら、デフォーは前を行くベイカーに小声で話しかけた。白い息を吐き出さぬよう、なるべく口を開けずに声を出す。
 ベイカーはお喋りを注意するでもなく、投げやりに答えた。
「ブリーフィングで聞いた以上のことは、俺だって知らんよ」
 国境紛争を続けていたパキスタン軍とインド軍が停戦協定を結んだため、パキスタン側へ学術調査に入ったという説明は聞かされていた。
 ──しかし、イスラム過激派がいるのに調査に入るなんて、助けに来るほうの身にもなってほしいもんだ。
 デフォーは足元の砂礫を踏みしめつつ思った。所々、雪の積もった部分が増えてきている。尾根を越えた反対側、北向きの斜面を下りる時には、もっと歩きづらくなるかもしれない。
 すぐ後ろを歩くロバーツが、話に入ってきた。
「そんな連中を守りながら仕事するのは、ちょっと面倒だな。今回は新人もいることだし」
 最後尾を黙々とついてくる男、最近チーム9に加わった、カトリと名乗る日系人のことだ。陸軍特殊部隊からの出向だと聞いている。
 カトリは寡黙な男で、話しかけてもただ曖昧な、東洋的な笑みを浮かべるだけのことが多い。狙撃手であるため、皆と同じM4カービンの他、アンチ・マテリアル(対物)ライフル、バレットM95SPを持っている。全長一メートルを超える大型の銃を分解収納したケースは、彼のバックパックにくくりつけられていた。
 長い時間をかけ、チームはようやく尾根に到達した。そのあたりまで来ると積雪量は増え、ブーツの足元から迫り上がる冷気は一段と激しい。空を覆っていた星々はいつしかその数を減らし、藍色の空は夜明けの予感をはらんでいた。
 稜線から上に出ぬよう、姿勢を低く保って休息を取る。何人かは酸素を吸っていたが、デフォーは今のところ大丈夫だった。隣では、学者肌なのに体力は人一倍あるウェストが、嬉々として双眼鏡を構えている。
「本当に鳥が好きなんですね」
「鳥だけじゃなく、自然科学全般に興味があるんだ。この部隊で金を貯めて、除隊したら大学に入りなおすつもりさ」
 ロバーツが口を挟んでくる。「あのな、作戦前にそういうこと言う奴は、たいてい戦死しちまうんだよ。やめとけ」
 ウェストは笑って双眼鏡を覗き続けていたが、ベイカーに偵察を命じられると、もう一人の隊員とともに尾根の北側斜面を下りて行った。
 その北側斜面を覗くと、登ってきた南側より傾斜がきついガレ場が広がっていた。起伏も激しく、いたる所に雪渓がある。そこを下り切った先、向かいの山との間の谷底には、道とも呼べぬ道があった。
 視線を上げれば、夜空とは違う黒さの、それぞれ微妙に色合いの異なる影が幾重にも連なっている。何列も続く山並みがあるのだ。所々の頂が明るく見えるのは、もう陽の光が届いているのだろうか。
 この地域のどこにも、人工のものは見当たらない。ここは、文明から隔絶された土地だった。そういえばと、デフォーはベイカーに尋ねた。
「大尉は、以前に南極の観測基地へ行かれたことがあるとか」
「ああ。このチーム9を、雪中戦担当にする計画があったんだが、その訓練で行かされた。正直、俺は寒いのは苦手なんだ。なんでその俺のチームを、雪中戦部隊にしようなんて思うんだか」
「こう言ってはなんですが、チーム9はいいように使われてばかりですよね」
 デフォーは、最近参加した作戦を思い出しながら言った。どうも、自分たちは雑に扱われているような気がしてならない。チーム9は、他のチームで持て余し気味だったり、問題を起こしたりした隊員の寄せ集めだという噂が、SEALsの中では囁かれている。実際、デフォー自身にも心当たりはあった。
「まあいいさ。来年には俺も異動だ。そうしたら、雪山にも南極にも縁はなくなるだろう」
 ベイカーが期待する口調で言った時、ウェストたちが戻ってきた。鳥を探していた時とは別人のような顔をしている。デフォーは、その表情が何を意味するか、知っていた。戦場にいる兵士のそれだ。
 ウェストは、ベイカーに開口一番、言った。
「あまり楽しくないものを見つけました」

2

 それは、この地に来て初めて見る人工物だった。
 尾根から雪渓のあるガレ場を一〇〇メートルほど下り、突き出した大岩を迂回していった先に、狭い岩棚が見える。尾根から見下ろした際には死角になっていた場所だ。そこに身を寄せ合うように設置された、カーキと白の迷彩が施された数張のテントは、小規模な部隊のキャンプ地であることを示していた。
 岩陰から状況を確認する。少し観察しただけで、誰もいないであろうことは、双眼鏡を使わずともわかった。少なくとも、生きている人間は。
 テントの周囲に、軍用としては違和感のある色──赤いものが飛び散っているのが見えたからだ。
 姿勢を低くし、M4カービンを腰だめに構えながら、警戒隊形でテント群の中に分け入る。すぐにデフォーたちは、テントの周囲で白く凍てついた、七つの死体を発見した。
 凍りつき、雪に覆われてもなお、いくつもの血だまりは鮮やかな赤色を残していた。テント群の中心、かまどの跡の周囲には食料や装備が散乱し、何らかの惨劇がこのキャンプ地を襲ったことを想像させた。
 うつ伏せになった死体を、ロバーツが仰向けに転がした。
「こんな所で寝てると、風邪ひくぞ」
 その冗談には隊員たちの誰も反応しなかったが、死体が着ている戦闘服と、背負ったままのドイツ製G3自動小銃を見たベイカーは冷静に言った。「パキスタン軍だな」
「インドとの停戦協定で、この地域にいてはいけないはずですよね」
 デフォーが疑問を口にすると、ベイカーが推測を述べた。
「この連中も、イスラム過激派を追っていたのかもしれん。パキスタン政府は、過激派に悩まされているからな。それが、返り討ちにされたということだろうか」
 その時、別の死体を確認していた隊員が言った。「銃撃の跡がないな。皆、刃物で殺られている」
 また別の隊員が、一つのテントの裏で声を上げた。
「なんだ、これ」
 近づくと、そこには岩肌に打ち込まれたアンカーから、鉄の鎖が垂れ下がっていた。アンカーに繫がれていないほうの端には手錠らしきものがついていたが、それは外れた状態だ。鍵で開けたのではなく、破壊されている。不揃いな鋸状の断面は、何か固いものを何度も打ちつけたようでもあった。
「捕虜をつないでいたんだろうか。それを奪回に来たのかもしれない」
「ずいぶんひどい扱いをしていたみたいだな」
 デフォーの頭に、捕虜虐待の四文字が浮かんだ。
 捕虜虐待は、人類史上いくつもの悲劇を経た末、ジュネーヴ条約で禁止された。しかし戦場においては遵守されないことも多く、そもそも正規軍ではないゲリラに対しては適用されない。アメリカ自身、捕えたイスラム過激派の戦闘員を拷問しているという。デフォーも、グアンタナモ基地で行われているらしいその措置についての話を聞いたことがあった。
 よく見れば、手錠には血のこびりついた、毛皮の切れ端のようなものが挟まっていた。
 デフォーの隣から、ロバーツがそれを覗き込んできた。
「こりゃあ、過激派じゃないぞ。雪山に住むっていうイエティだな。この連中、イエティを捕まえてたんだ。それで、取り返しに来た仲間に殺された」
 冗談めかして伝説の雪男の名を口にしたロバーツを、ウェストが即座に否定した。「それはないだろう。イエティは、ヒグマの見間違いという説が有力だ」
「びびってるのか?」ロバーツが冷やかす。
「無駄口を叩くな」ベイカーが遮った。「そんなもの、存在するはずがない」
「大尉殿は夢がないですなぁ」くっくっく、とロバーツが不気味な笑い声を上げる。「ま、夢なんて俺たちの仕事にゃあ一番要らないものですがね」
 ロバーツはそれから、テントの一つに入っていき、中を物色し始めた。
 ふと見ると、カトリが死体の前で自分の手のひらを合わせ、目を瞑っていた。デフォーは尋ねた。「何やってるんだ」
「死者が安らかに眠れるよう、祈っていた」
「日本……日系人というのは皆そうするのか」
「人によるよ」
 カトリは、その死体を確認するためにそっと仰向けにした。すぐにあることに気づき、デフォーとカトリは顔を見合わせた。
「これは……」
 二人の声を聞いたベイカーが近づいてくる。「どうした」
「見てください。刃物だけじゃないようです」
 カトリの指し示した死体の胸、バジュワ中佐と読める名札をつけた部分に、細い木の棒のようなものが刺さっている。倒れ込んだ時に折れたのだろう、くの字になった部分には、三枚の羽がついていた。それぞれに、筆でさっと刷いたような赤い線が入っている。矢羽だった。
 発見した死体を再度確かめると、三体に矢で射抜かれた跡があった。
「他の二人については、矢を回収したんだな。これだけは、死体の下側にあったから忘れていったのかもしれない」ウェストはそう言いながら、凍った死体から抜き取った矢を観察して言った。「鏃の工作精度は悪くないが……。イスラム過激派が、今どき矢で戦うかな?」
「やっぱりイエティだ。矢を使うイエティ」と、テントから出てきたロバーツがふざけて言った。
「しつこいぞ」と叱ってから、ベイカーは言った。「学術調査隊が心配だ。急ごう」
 デフォーはバックパックを背負いなおしたが、頭の片隅には引っかかるものがあった。彼らパキスタン兵が追っていた相手、そして彼らを殺した相手は、本当に過激派だろうか──。

3

 太陽は高く昇り、濃い青色の空から眩い陽光が降り注いでいる。強烈な紫外線から目を守るため、ゴーグルは外せない。
 パキスタン兵のキャンプ跡を調べていたため、予定の時間をオーバーしていた。ただでさえ、薄い酸素のせいで通常よりも注意力が落ち、行動に時間がかかっている。デフォーたちは急いで斜面を下りきると、すぐにまた、谷向こうの山を登り始めた。その先にある氷河を渡れば、調査隊のベースキャンプだという。
 山の中腹で小休止を取っている時、ロバーツがノートパソコンを取り出していじり始めた。
「それ、何ですか。軍から支給されているものじゃないですよね」
 デフォーが訊くと、ロバーツはにやりと笑って答えた。
「さっき、パキスタン兵のテントの中にあったのを失敬してきた。何か情報がないか漁ってみたいんだが……ちょっと手こずりそうだ」
 さすがのロバーツも、短い休止の間にはロックを解除できなかったらしい。悔しそうにパソコンをバックパックへ仕舞っていた。
 そこから三〇〇メートルほど高度をかせぎ、峠にたどり着いたのは、もう昼過ぎだった。
 峠から反対側を見下ろすと、平坦な地形が広がっていた。
「なんだ、最初からあそこに降下すればよかったのに」
 デフォーが呟くと、いつの間にか隣で双眼鏡を覗いていたウェストが答えた。「表面を砂礫に覆われているが、あれは氷河だ。あんな所に降りてみろ、隠されてるクレバスに飲み込まれちまうぞ」
「あれが、氷河ですか。大昔は、あんなのがそこら中にあったんですかね」
「氷期にはね。実は、地球は今でも氷河時代の中にあるんだぜ。その中で、氷期と間氷期を繰り返している。今は、一万数千年ほど前に始まった第四間氷期の真っ最中だ」
「へえ……」
 ウェストによれば、目の前の氷河は西から東へ、年に数メートルというきわめてゆっくりした速度で流れているらしい。氷河の北側には別の尾根が並行しており、鋸状の稜線には一ヵ所だけ切り取ったように、氷河よりも標高の低い鞍部があった。もっとも、氷河がそこへ流れ込むにはまだ何千年もの時間を要するのだろう。
 その鞍部の向こうには、盆地らしき地形がかろうじて見通せた。
「あれが、調査隊のベースキャンプがあるという盆地だな。見ろ、氷河にロープが張ってある」ベイカーが指さした。
「調査隊が残置したものかな」「使わせてもらうとしよう」と、他の隊員たちが話し合っている間、デフォーは自分たちのいる峠の周辺を念のため確認した。そして、モノトーンの中に小さく光る色を見つけた。
 峠の、少し開けた場所の端。大きな岩が張り出した陰に不自然な形で石が重ねられ、その前に乾いた黄色い花があったのだ。茎が石の隙間にねじ込まれている。自生しているものではなく、どこか別の場所から抜いてきて、強風に飛ばされぬように差したのだろう。
 花の置かれた石。これはつまり、墓のようなものか? いったい誰がこんなものを?
 その時、かつん、と硬いものがぶつかる音がした。デフォーの頭上の大岩に、何かが当たったのだ。ぱらぱらと落ちてきた石の破片がヘルメットに当たり、乾いた音を立てる。
「敵襲!」
 デフォーは咄嗟に叫んだ。隊員たちが一斉にその場で伏せた。
 ひゅっ、という空気を切り裂く音がした直後、細長い棒状のものが、地面に突き刺さる。やがて音はいくつも重なり、その都度、突き刺さるものが増えていった。中には岩に当たって跳ね返され、転がってくる棒もある。
 矢だった。
 続々と飛んでくるそれを避け、隊員たちは手近な岩陰へ身体を押し込んだ。
 様子を見ているうちに、矢が飛来してくる方向はわかった。峠を見下ろす、尾根の高い位置から放っているのだ。
 岩の隙間へは屈んで入るしかなく、デフォーの身体の半分ほどは吹き溜まった雪に埋もれてしまった。ゴアテックスのECWCSパーカーから水分がしみ込んでくることはないものの、冷気は容赦なく全身を包み込む。雪に触れた肌が痛みを感じ始めた。だが、パキスタン兵の死体を思い出せば、そんなことには構っていられない。ナイフを手に躍り込んでくるイスラム過激派戦闘員の姿を想像し、M4カービンを握りなおす。
「皆、無事か」
 ベイカーの声に、「ジャクソン、無事です」「ニールセン、生きてます」と次々に声があがる。幸い、負傷した者はいないようだ。
 やがて、飛来する矢の数は減ってきた。デフォーはその隙に、雪にまみれつつ、匍匐して皆の所へ戻った。カトリを除く全員が、同じ岩陰に入っていた。
 そのカトリは、少し離れた岩の下で、M4カービンを手に身を屈めていた。すぐ近くの地面に、矢が刺さっている。
「危ないぞ。こっちへ来い」
 ウェストが叫ぶ。頷いたカトリは走り出そうとして、突然M4カービンを構えると狙いをつけた。
 しかし、撃つのかと思いきや、カトリはすぐにはっとしたように引き金から指を離した。そのまま、皆のそばへ走り込んでくる。
「敵を見たのか」
「ああ……」カトリは、神妙な顔をしていた。
「なんで撃たないんだよ」ロバーツが言う。腰抜けめ、とでも続けそうな表情だった。
 いつの間にか岩陰から身体を出し、双眼鏡で周囲を見回していたウェストが報告した。「遠くに逃げていく影が見えます。もう……いなくなりました。皆、出てきて大丈夫だと思います」
 警戒しながらゆっくりと外へ出て安全を確認すると、ベイカーは自問するように呟いた。
「パキスタン兵を襲った、イスラム過激派か? なぜ銃を使わなかったんだろう。ウェスト、姿を見たか」
「遠くて、はっきりとはわかりませんでしたが……。なんというか、毛皮のようなものを着ていました。防寒着にしてはずいぶん古臭い感じです」
「お前が撃っとけば正体がわかったかもしれないのに」ロバーツが、カトリをしつこく問い詰めた。「なんで撃たなかったんだよ」
 カトリは、ぼそりと言った。
「今の奴らは、過激派じゃない」
「は? どういうことだ」ロバーツが苛立つ。
「誰かはわからないが、少なくとも我々を殺そうとはしていなかった。あの位置から奇襲して、誰にも当てていない。自分を狙っていた奴も、わざと外した。狙撃兵の自分にはわかる」
「威嚇だったということか?」ベイカーが間に入ってきた。
 おそらくは、とカトリが答えると、ロバーツが聞こえるか聞こえないかの声で言った。「本当かよ」
「そこまでにしておけ」
 ベイカーは話を終わらせると、皆に言った。「調査隊が危険だ。すぐに出発するぞ」
 話は終わったものの、装備を再び身に着ける隊員たちの間に、カトリを臆病者とみなす雰囲気が漂っているのをデフォーは感じていた。
 パキスタン兵に祈りをささげていた彼の姿を思い出す。……カトリは、この先俺たちの足を引っぱりはしないだろうか。

4

「来てくださって、ありがとうございます」
 米日共同の学術調査隊を率いるランシング教授は、敬礼するベイカー大尉以下の隊員たちを前に言った。ブリーフィングでは五十過ぎだと聞いていたが、豊かなブロンドの髪と、彫像のように整った顔立ちをしている。女子学生に人気のあるタイプだな、とデフォーは思った。それが僻みだとは自覚している。
 残されていたガイドロープがあるとはいえ、互いの身体を結び、クレバスを踏み抜かないよう注意しつつ氷河を横断した先。山塊の狭い鞍部を抜けてたどり着いたその場所が、調査隊のベースキャンプだった。キャンプの先には盆地状の地形が広がり、全周を切り立った峰々に囲まれている。
 太陽の姿は、空のどこにもない。黒く影になった山の向こうにあるのだろう。光の差し込まぬ薄暗い盆地の奥は、両側から回り込む山塊に閉ざされ、入ってきた鞍部の他に出口はないように見えた。
「これで安心です。まだ実害はありませんが、イスラム過激派を警戒するため、調査がなかなか進まず困っていたのです」ランシング教授は言った。
「つい先ほど、我々もそれらしき集団を目撃しました」
 ベイカーは、全滅したパキスタン軍のことや、自分たちが攻撃を受けたということは話さなかった。そこまで伝える必要はないということか。
 それにしても、これほど危険な場所からなぜ逃げ出さないのだろう?
 デフォーと同じ疑問を抱いたらしいベイカーが、教授に尋ねた。
「しかし、ここは危険です。撤収したほうがよいのでは?」
「そうもいきません。非常に重要な調査なのです」
「いったい、何を調べているのですか」
「……単なる、地質調査ですよ」
「そうまでして調べなければいけないとは、何か重要なものでも埋まっているのですか」
 ベイカーが重ねて尋ねた時、教授の表情がわずかに強ばるのが見えた。
「いえ……。そういうわけでもありません。このあたりはアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部で……これ以上は、専門的な説明になりますが?」
「ああ、いや、結構です」
 自分で聞いておきながら、面倒になったのかもしれない。ベイカーは早々に話を切り上げた。
「では、我々は過激派の捜索に向かいます。くれぐれも気をつけてください」
「ええ、わかりました。お願いです、早く彼らを排除してください」
 デフォーは、一瞬耳を疑った。科学者の口から、排除などという台詞を聞くとは思わなかった。いくら研究のためとはいえ、そこまで望むものだろうか──?

 既に陽は傾き、東の空には再び星の光が見え始めていた。
 ベースキャンプから出発したチーム9の隊員たちは、盆地と氷河を隔てる尾根の鞍部を過ぎ、小休止に入っていた。
 もう少し進み、守備に適した地形が見つかり次第、今日は野営することになるだろう。雪洞が掘れるくらい雪が積もっていればかえって暖かくなり助かるのだが、なんとも中途半端な積雪量だ。
 じっとしているとすぐに圧倒的な冷気で身体が震えてくる。デフォーは、立ったまま足踏みを続けていた。隣ではロバーツが座り込んで、パキスタン兵のパソコンのハッキングに相変わらず精を出している。集中のあまり、寒さも気にならない様子だ。
 ぽつぽつと、盛り上がらない会話も聞こえなくなったところで、デフォーはベースキャンプからずっと胸に抱えていた不信感を口にした。
「あの、ランシング教授って人は、何かを隠していると思わないか」
 怪訝そうな顔が一斉に向けられる。
「そうか……?」「思い過ごしじゃないのか」
 ほとんどの者からは、否定的な返事が返ってきたが、一人だけ同意の声を上げたのは、意外にもカトリだった。
「私も、そう思います。そもそも科学者が、いくら相手が研究に邪魔とはいえ、『排除してくれ』などと言うでしょうか」
 カトリも、同じことが気になっていたようだ。
 だが、皆はまだ首を傾げている。カトリの意見であることも、皆の反応を鈍らせている原因かもしれない。デフォーが、自分でも思いがけずカトリを擁護する台詞を口にしようとした時、それまで会話を無視してパソコンへ向かっていたロバーツがつまらなそうに呟いた。
「あながち、そいつらの言うことも間違っちゃいないみたいだぜ」
 ロバーツが、パソコンを手に立ち上がる。その顔には、見たことのない真面目な表情が浮かんでいた。「ようやく、パスワードを解読できた」
「何だ、役に立ったじゃないか」ウェストが、ロバーツの胸、防寒パーカーの下の記章のあるあたりを指さす。
 ロバーツはにやりと笑い返してから、また表情を引き締めなおし、「どうやら俺たちは、ずいぶん軽く見られてたらしい」と言った。

5

 夜が明けた。
 とはいえ、山に囲まれた盆地にまだ陽の光は届かない。峰々の雪に反射した光が、うっすらと調査隊のベースキャンプを照らしている。
 岩陰の寝袋で凍える夜を越したデフォーたちが戻ってきた時、ベースキャンプの外れでは、分厚いダウンジャケットに身を包んだランシング教授が、濛々と湯気を上げるシエラカップのコーヒーを啜っているところだった。霧に包まれている盆地の奥へ視線を送る教授は、背後に立ったデフォーたちチーム9にはまだ気づいていないようだ。
 ベイカーが呼びかけた。「ランシング教授」
 教授はそれほど驚いた様子もなく振り返り、口を開いた。
「ああ、皆さんでしたか。過激派の動向はわかりましたか」
 落ち着いた微笑みを浮かべる教授に、ベイカーは直截に言った。
「教授。我々に隠していたことがありますね」
「……何のことでしょうか」
「調査を妨害しているのは、イスラム過激派ではない──この土地の、先住民族だ」
 それは、ロバーツがハッキングしたパソコンに記録されていた事実だった。住む者など誰もいないとされていたこの地域には、文明世界に知られることなく暮らす先住民が存在し、この二十一世紀においても、狩猟中心の生活をしていたのだ。
 もっとも、アマゾンやニューギニアのジャングルでもそのような民族が見つかっているそうなのだから、おかしくはないとデフォーは思った。何しろこのあたりは国境紛争で軍隊が入るまで、地形図がなくても誰も困らなかった土地なのだ。
 微笑みをその顔に貼りつかせたまま黙っている教授に、ベイカーは言った。
「その先住民たちを排除することを、あなた方はパキスタンに要請した。そのため、パキスタン軍の部隊が停戦協定に違反してこの地域に入ってきたんだ。その部隊の指揮官は、バジュワ中佐という方ですね。ご存知のはずだ」
 ランシング教授が、息を吞むのがわかった。ベイカーがたたみかけるように言う。「残念なことを教えてさしあげましょう。バジュワ中佐とその部下たちとは、もう会えませんよ」
「どういう意味ですか」
「中佐の率いる小部隊は、全滅していました。私が思うに、そうなっても仕方がないことを、彼らはしていた」
 ロバーツが進み出ると、ノートパソコンを掲げた。一見、教授を睨みつけているようだが、歪めた口元からすると薄笑いを浮かべているつもりなのかもしれない。ベイカーが続ける。
「先住民は、調査を妨害したとはいっても、矢を射かける程度だったはずだ。なのに、あなた方は排除を望んだ。それは、単に追い払うという意味ではなかった。バジュワ中佐たちは、先住民を何人か撃ち殺したんだ。その上、捕えた者を虐待していた。ご丁寧に、報告文書が残っていましたよ。結局、助けに来た先住民の仲間によって、中佐たちはその報いを受けましたが、先に民間人相手に手を出したのはあなた方だったということは間違いない」
 ランシング教授の表情から、微笑みが消えていた。
「なるほど、そこまでご存知ですか」
「それだけではないでしょう」ベイカーはさらに厳しい顔つきで言った。「パキスタン軍の資料には、近々アメリカ軍もやってくると書かれていました。──我々のことですね。我々にも、その先住民を排除──殲滅させるつもりだったんだ。イスラム過激派なんて、元からいなかった。我々は、過激派だと思い込まされて、民間人を撃つところだった」
 チーム9の全員が、教授へ険しい視線を投げた。だが、教授はそれに怯む様子はない。淡々と、話し始めた。
「正直なところ、私は、あまりバジュワ中佐たちは好きではなかった。軍人といっても、パキスタンの軍閥の私兵のような連中、金のために何でもする、はぐれ者の寄せ集めでした」
 ロバーツの眉がぴくっと動くのが見えた。
「だから、アメリカ側からも部隊を出すと聞いて、よかったと思いました」
「アメリカ『側』……?」
「そう。アメリカ側はあまりパキスタン軍を信用していないようですね。自分たちのほうで確実に手を下したいと思ったのでしょう。だから、皆さんが送り込まれたんです」
「学術調査隊のためにパキスタン軍や我々アメリカ軍まで動かすなんて、いったい背後に誰がいるんですか?」
 ベイカーの質問に、ランシング教授は微かなため息をついてから答えた。覚悟を決めたような顔に見える。
「この調査は、単なる学術調査ではない。アメリカ政府主導の、きわめて重要な国家プロジェクトなのです。……邪魔する者がいるならば、武器を使用することすら認められています。そして私も、それに同意します」
 ──やはり。教授が排除という言葉を口にした時の違和感は、間違っていなかった。デフォーは思った。
 視界の隅に、テントから他の科学者たちが出てくる様子が映った。遠巻きに、この状況を見守っているようだ。
「いったい、何のプロジェクトなんですか」ベイカーの声が大きくなる。
 教授は表情を硬くし、黙りこんだ。その様子に苛立ったのか、パソコンを置いたロバーツがドスの利いた声で言った。
「あー、パキスタン軍の奴らがはぐれ者って話でしたが、俺たちも結構はぐれ者の寄せ集めでしてね。厄介者のチーム9ってね」
「やめろ」
 意外にもロバーツをたしなめたのは、ベイカーではなくウェストだった。
「ランシング教授……。どこかでお写真を拝見したことがあると思いましたが、『サイエンス』誌に論文を載せておられましたね。しかし、ご専門は地質学などではないはずです。たしか、核物理学……。論文は、放射性物質の地層処分についてでした。そんな方が、ここで何をされているのです」
 教授が、ほう、と目を見開いた。
「『サイエンス』を読む特殊部隊員がいるとはね。そう、私の専門は放射性物質の管理と廃棄です。ここで行っているのは──」
 教えてはいけない、という声が科学者たちの間から聞こえたが、手のひらを上げてそれを制し、教授ははっきりと言った。
「我々が行っているのは、米日共同の放射性廃棄物処分場建設計画、その事前調査です。アメリカ、日本、そしてパキスタンの政府は秘密裏に、そして強力にこの計画を進めています」
 デフォーは目がくらむような思いを抱いた。任務の関係上、様々な秘密を知ることもあった。だが、まだまだ国家機密の闇というのは深いらしい──。
 ランシング教授は、手を後ろに組んで行ったり来たりしながら、学生へ説明するように、ゆっくりと語りかけてきた。
「今この瞬間も、世界中で放射性廃棄物が生み出されています。これは、我々の文明が原子力に頼っている部分がある以上、致し方ないことです。今はもう、原子力に賛成だの反対だの、言っている場合ではないのですよ。人類はそれを手にしてしまったのだし、社会はそれによって動いているのだから。そして生み出された放射性廃棄物は、どこかに捨てなければいけない。それを妨げることは、人類の進歩を妨げることでもある。それでもなお邪魔するならば──私はやむを得ないと思います」
 皆、口を開かない。それは完全に同意はできないが、明確に反論する言葉も持てないという沈黙だった。
「数年前、アメリカと日本は、放射性廃棄物の最終処分施設をモンゴルに建設する計画を立てました。しかし、計画を公開したことで反対運動が激化し、計画を断念せざるを得なかった。あらためて見つけたこの地では、もう失敗を繰り返すわけにはいきません。残された時間は、あまりないのです」
 それからランシング教授は、同僚の科学者たちのほうへ歩いて行った。科学者たちと、デフォーたちチーム9の列が、向き合う形になる。
「この盆地の突き当りに、洞窟があります」
 教授が指さす先では、霧が少しずつ晴れてきていた。薄暗い断崖の陰に、周囲よりもさらに深い闇があるのがわかった。
 再びデフォーたちへ顔を向け、教授は言った。
「洞窟の調査はまだ完全に終わっていませんが、少なくとも長さは五キロ以上、深度も四〇〇メートルを超えていると推定されます。我々の目的──大深度地下に放射性廃棄物を埋設する、地層処分場にはお誂え向きです」
「受け入れることになるパキスタンは、本当に承知しているんですか」ベイカーが聞いた。
「パキスタン政府は歓迎していますよ。だからこそ停戦に合意し、我々はここに来られたのです。彼らには、アメリカと日本から相応の見返りが提供されます。実際のところ、彼らだって、こんな土地──兵士の死因のほとんどが凍傷というほどの土地は持て余していた。ただ、面子のために軍を置いていただけです」
 ウェストが、あくまで素朴な疑問といった調子で手を挙げた。
「廃棄された放射性物質は、どうなってしまうんでしょうか」
 いい質問です、と学生に対するように教授が答えた。「放射性物質の原子核は、放射線を出して別の原子核へと変わる『放射性崩壊』を繰り返し、安定した物質になっていきます。当初あった放射性物質の半分が別の物質へ変わるまでの時間──『半減期』は、ラドン220ならわずか五十五秒ですが、セシウム137は三十年、ウラン238に至っては四十五億年です。ここに埋める放射性廃棄物の場合、様々な元素が含まれますが、一万年後にはおよそ二千分の一にまで放射能は減少する計算です。ちなみに、建設する施設の管理期間は百万年と想定しています」
「百万年……」隊員たちの何人かが、呆然として呟いた。
「そう。人類が農耕を始めたのがおよそ一万年前。その百倍もの期間です。その間には、いくつかの氷期と間氷期を繰り返すでしょう。永劫といってもいい時間です」
 それまで黙っていたカトリが、ぼそりと口を挟んだ。
「百万年後の人間にとっては、迷惑な負債でしかない」
 何を考えているのか、東洋人の表情はよくわからないが、吐き捨てるような口調はわかった。そこに含まれているのは、怒りだ。
 それを聞いた日本人らしき科学者が、カトリを睨みつける。
 デフォーは、ふと三日前の基地での情景を思い出した。あのブリーフィングにいた、NNSAの男──。ようやくその意味がわかった。放射性廃棄物処分場のための作戦だったからか。
 同じ場面を思い浮かべていたのだろう。隊員の一人が誰にともなく呟いた。「なぜ、最初から先住民のことを言わなかったんだろう」
 その問いには、ウェストが答えた。
「本音と建て前だろう。いくらなんでも、民間人を殺せとはストレートに命令できない。この地域に民間人はいない、いるのは調査隊の他は全員過激派だと情報を与えておけば、手を汚すのは俺たちだ」
「こういう仕事は、厄介者のチーム9にやらせるわけだ」ロバーツが吐き捨てた。
「先住民といえば」デフォーは、思わず声を上げていた。
「パキスタン軍の資料には、ベースキャンプを設置したこの盆地を攻撃してこないのは、彼ら先住民の聖地のような場所だからだろうとありました。聖地を、いきなりやってきた連中に勝手に占領された上、仲間を殺されたのなら、彼らの怒りも当然かと思いますが」
 ランシング教授が、何も言わずにじっとデフォーとカトリを見つめてくる。デフォーも、それに負けぬよう見つめ返した。
 教授は言った。
「未来のことを考えず、知ろうともせず、ただその場の感覚でかわいそうとか、きたないとか、感情論だけで行動するのはやめていただきたい。それを、偽善というのです」
 その声はそれまでより少しだけ大きく、教授なりに感情が昂っているのだろうと感じられた。
「誰かが決めて、誰かが犠牲にならなければ、このまま放射性廃棄物はたまる一方だということは、わかりますね? 私たち人類は、さらに未来へと文明を進歩させていかなければならない。過去へ戻ることはもちろん、停滞も許されないのです。先住民の文化が、学術的に貴重だとはわかります。しかし、過去と未来を比べるならば、私は未来を取る。進歩をやめることは、種の滅亡にも繫がることだと私は思います。だから、そのための犠牲は必要なのです。コラテラル・ダメージです」
 その言葉は、デフォーの心を抉った。まさか知っていてその用語を使ったわけではないだろうが、それは特殊部隊員が救出作戦にかかわる際、必ず一度は悩むもの──やむを得ない犠牲のことだった。そして、デフォーはかつて実際にその犠牲を生み出したことがあった。それがもとでしばらく任務につけずにいたデフォーを拾ってくれたのが、チーム9、ベイカー大尉だったのだ。
「私は、私の信念に従う。百万年先の人類のことを考えて、あえてこの道を選びます。その間に救われる人間の数を思えば、何十、何百の墓標を築くことも厭わないつもりです。私も、その墓標の列に連なる覚悟はできています」
 教授の言葉を聞いたデフォーの脳裏に、あの墓の情景が浮かんだ。積まれた石と、差された黄色い花。あれは、パキスタン軍から助け出されたものの、そこで命尽きた捕虜の墓だったのかもしれない。仲間たちはどこか遠くから摘んできたのか、そっと花を供えたのだろう──。
 デフォーは、思わず口にしていた。
「その墓に、花を手向けてくれる人のことは考えないのですか」
 教授はデフォーの目を見据えて、言った。
「お話は終わりです。皆さんは、軍隊でしょう。軍隊とは、あくまで国益のために存在するもののはずです。そして、皆さんはそのための駒なのです。これ以上何も言わず、任務を果たしてください」
 背を向けて、教授が歩み去っていく。
 ──駒。駒か。そうだ、俺たちはただの駒でしかない。だが、駒にだって、それぞれ信じる正義はある。

6

 静かな怒りが、デフォーを突き動かした。もう一度、ランシング教授の背中に呼びかける。
「待ってください──」
 その声を無視して歩み去ろうとする教授の腕に突然、木の枝が生えたように見えた。
 誰もが目を疑い、もちろん本人も信じられないといった顔で、自分の腕を見つめている。わずかに遅れてから、教授はうめき声を上げて崩れ落ちた。
 それは木の枝ではない。矢だった。そして、教授の苦しむ声を合図にするかのように、すさまじい勢いで矢が飛んできた。
「手近な物陰に入れ! ああ、テントはだめだ! 貫通するぞ」
 ベイカーが、科学者たちの盾になる位置で立ったまま指示を出した。その態度にデフォーは感服したが、ただ見ているわけにはいかない。近くでパニックに陥っていた科学者の一人の腕をつかむと岩陰へ連れていき、自らもその男へ覆いかぶさるように岩の間へ身体を押し込んだ。それから身体の向きを変え、M4カービンを構えなおす。
 頭上の岩に当たり、曲がった矢が、足元に落ちてきた。その矢羽には、さっと筆を一払いしたような赤い線が入っている。
「おいおい、今回はマジだな。でも、ここは聖地じゃなかったのか」ロバーツが愚痴った。
「よっぽど怒ってるんだろうな」ウェストが答える。
「俺たちゃいいとばっちりだ」
 隣の岩陰から、ランシング教授の苦悶する声が聞こえてくる。衛生担当の隊員が、矢を抜いて応急処置をしているようだ。
 やがて、ベイカーの大声が響いた。
「退却!」
 矢の飛来が収まるのを見計らい、デフォーたちは渋るランシング教授たちを引き連れ、急ぎ足でベースキャンプを後にした。最低限の荷物だけを持って脱出する羽目になった科学者たちは文句を言い続けていたが、ベイカーが「彼らは今回、教授に矢を当ててきた。それだけ彼らは怒っているんだ」と一喝すると、おとなしくなった。
 盆地への入口である狭い鞍部を抜けた後は、氷河を横断し、さらに向こうの山を登らなければならない。普段運動に慣れていない科学者たちにとっては、ここへ来る際に同じコースを通ってきたとはいえ、特殊部隊と一緒のペースで行軍するなど拷問にも等しいことだっただろう。向かい側の山を峠まで登り終えると、科学者たちはもう動けないとばかりにへたり込んでしまった。
 後を追ってくる者はいない。遠くに見える盆地で、先住民らしき人影が動いているのがかろうじて見えた。デフォーは思った。彼らはたぶん、ただ彼らにとって大切な土地を守りたかっただけなのだろう。
 往路に見た墓を探すと、乾いた花はまだそこにあった。差し替えてやりたくもあったが、あいにく周囲には草の一本すら生えていない。
 ランシング教授は、ずっと黙ったままだった。矢傷が痛むからだろうか。
 その時、遠くから足音が聞こえてきた。それも、一人や二人ではない。デフォーたちは一斉に身を屈め、それぞれM4カービンを構えた。
 何人かが周囲に散り、状況を確認する。氷河とは反対側の、行きに登ってきた斜面を見に行った隊員が叫んだ。
「パキスタン軍らしき歩兵部隊が接近中。百──いや、二百人規模」
「やっと来たか」教授が呟いた。
「どういうことですか」
「私が簡単に諦めるとでも思いましたか? 皆さんに、まだ言わないでいたことがあったのです。バジュワ中佐は、増援を要請していました。アメリカ政府は、パキスタンを信用できずに皆さんを送り込んだようですが、頼りなさでいえば中佐たちと変わりませんね。特殊部隊とは、もう少し非情な人たちかと思っていました」
 なんだと、と拳を固めたロバーツを、ウェストが抑えている。
「ある意味、パキスタン軍のほうが清々しい。彼らは、人類の未来についての話はどうでもいいようでしたが、金のためなら全力を尽くす。処分場を建設するため、先住民の殲滅を完遂してくれるでしょう。私は、目的を果たせるのであればどちらでもかまいません」
 自らの正義を固く信じるランシング教授の目には、尋常ではない光が宿っていた。
「おおい、こっちだ」
 科学者の一人が、斜面を見下ろす位置に走り寄ると、大きく手を振り始めた。パキスタン軍からは、かなり目立つだろう。
 突然銃声が響き、次の瞬間にはその科学者は弾き飛ばされ、うめき声を上げていた。衛生担当の隊員が駆け寄る。
 銃撃はその後も続いた。はじめ散発的に撃ち上げられてきた弾は、すぐに天に向かって逆流していく雨のようになった。皆が岩陰に隠れる。
「あいつら、気が立ってやがる。我々を先住民だと思っているのかもしれん」ベイカーが言った。
 斜面を覗き込んだウェストが叫んだ。
「パキスタン軍が、兵力を分けている。半分はこの峠へ、半分は他の部分で稜線を越えるつもりか」
 そうだ。何も自分たちが守っているこの峠を抜けなくとも、どこでもいいから山を越えてしまえば、氷河のほうへ下りていけるのだ。
「なんだよ、だったらこっちに来なくてもいいだろうに」と、ロバーツ。
「いや、ここにいる先住民をまず始末しようと考えているんだろう。この山を越えていかれると、盆地にいる本物の先住民たちは一方的に撃たれる羽目になる。本当の虐殺になるぞ」とベイカーが言った。
「でもこのままじゃ、その前に俺たちが虐殺されますよ」
 M4カービンを構えた隊員たちが、斜面の際まで匍匐していく。
 彼らを止められるのが、自分たちしかいないのならば──。
「撃ってはだめだ! パキスタンの正規軍相手に戦争を始めるわけにはいかん」ベイカーが大声で言った。
「しかし!」
 パキスタン軍は反撃に警戒してなのか、岩陰に隠れて射撃しつつ前進してくる。八人対百人。いかに一騎当千の特殊部隊とはいえ、撃ち返すことができなければ本当に虐殺は免れ得ない。
 雪面に伏せていた身体が、芯から冷えてくる。何人かが、破片で軽い怪我を負ったようだ。うめき声が聞こえた。
 怒りの形相を浮かべたロバーツが、「くそっ、俺は海軍に入ったつもりなのに、なんで雪山でこんな目に遭ってんだよ」とぼやいている。
 何かの覚悟を固めたらしいベイカーが、隊員たちへ向かって言った。
「ここまで来たら、やばい橋を渡ってもいいか」
 全員が頷き、白い息を吐いた。「もちろんです」「俺たちをこんな場所に送り込んだほうが悪い」
「オーケイ。だが、下手したら軍法会議だぞ」
「生きてなければ軍法会議にも出られやしません。その時は大尉が責任を取ってくださいよ」
 きつい冗談だ、とベイカーがやけくそ気味に笑った。
 デフォーは峠の様子を振り返った。隊員たちはそれぞれに、M4カービンに弾を装塡しなおしている。調査隊の科学者たちは怯え切って、岩陰にひそんでいた。
 ──そして、視界の端で大岩をよじ登っている者がいた。カトリだった。逃げるのか、やはり臆病者だったのかと失望しかけて、カトリが背負っている大きな銃に気づいた。
 例のアンチ・マテリアルライフル、バレットM95SPだ。
 どうするつもりだというデフォーの声は、聞こえていないようだ。岩の上に登りきったカトリは、パキスタン軍の押し寄せる斜面とは反対側、氷河の方向へ腹ばいになり、射撃姿勢を取っていた。M95SPの銃口は、氷河、さらにはその奥の盆地を見通すラインへ向けられている。
 何を狙っているんだ──。デフォーが叫ぶ前に、M95SPの発砲炎がカトリの身体を一瞬だけ赤く染め、戦車砲のような鈍く重い音が響いた。衝撃波すら感じる。カトリは装塡された五発の全弾を立て続けに撃った。
 戦車の装甲を貫通してから内部で炸裂、燃焼するよう設計された十二・七ミリHEIAP弾は、氷河の奥深くにめり込むとカタログ通りにその威力を発揮した。氷河の中に等間隔の空間が穿たれ、そこから生まれた亀裂は、やがて巨大な切り取り線を形作る。
 長く尾をひき、遠い山肌にこだました発砲音が聞こえなくなる頃、氷河の様子が変化し始めたのをデフォーたちは目撃した。かすかに聞こえた、みしっ、という音は、急速に耳を聾する轟音へと成長していく。
 氷河の、差し渡し数百メートルほどの部分に段差が生じ、ずりっと動き出した。氷と雪の欠片が舞い上がり、白い煙が切断面を覆い隠す。数万年をかけて少しずつ進んできた氷河の流れは、劇的にその速度を上げた。
 氷と雪でできた大河が、洪水のような速さで流れていく。やがて、白い煙はデフォーたちのいる峠へと向かってきた。伏せた身体の周囲を、猛スピードで小さな氷片が駆け抜ける。無数の欠片が、肌に当たるのを感じた。
 気づけば、パキスタン軍からの銃声は完全に止んでいた。兵士たちは全員、固まったようにその光景を見つめている。もちろん、峠にいるチーム9の隊員たちもだ。
 白煙がようやくおさまり、視界が開けると、氷河の一部は形を変え、盆地へ通じる狭い鞍部は無数の巨大な氷塊により埋め尽くされていた。氷塊は、鞍部の両側にそびえる峻嶮なピークと同じ程度の高さにまで達している。取り除くには大量の重機でも難しいだろうし、そもそもここまで重機を運ぶことはできない。道はなく、ヘリで運び入れようにも上昇限界を超えた高地なのだ。爆破するとしても、後から押し寄せる氷河が新たに崩落するだけだろう。
 盆地──“聖地”へ物質文明を運び入れる道は、完全に閉ざされたのだ。
 山裾を、パキスタン軍が撤退していくのが見えた。任務続行が不可能になったため、一旦は引き揚げるということだろう。もう二度と来てくれるなと、デフォーは願った。
「しかしお前、涼しい顔してとんでもないことをするな」
 ロバーツが、岩から下りてきたカトリの肩を叩いている。
「いえ……それより、昨晩は私の味方をしてくれてありがとうございました」
「けっ。ああいう、気取ったインテリは好かないってだけさ」
 凶相の口角をわずかに上げて歩き去るロバーツと入れ違いに、ベイカーがやってきて言った。
「香取中尉、いい腕だが……君の立場で、あんなことをしてよかったのか」
「日本には、『義を見てせざるは勇無きなり』という言葉があります」
 デフォーは、思わず二人の会話に割り込んでいた。「中尉って、カトリがですか」
 ロバーツや、チーム9のメンバーも皆、カトリを見て固まっている。
「ああ……正体を隠していて、申し訳ありません。アメリカ陸軍の所属というのは、偽装でした。自分は、本当は日本の陸上自衛隊員、階級は二尉──中尉です」
 カトリは、隊員たちへ向きなおると少し照れ臭そうに告白した。
 驚く皆に、ベイカーは言った。
「すまん、俺は知っていたんだが……。まあ、香取中尉の国では、いろいろとあるようでな」
「大きな声では言えませんが……我々自衛隊員に実戦経験を積ませるため、ごく少人数ずつですがアメリカ軍特殊部隊への出向が行われているのです。私も詳しくは知りませんが、ベトナム戦争の時代から続いていると聞きます」
「へえ……。バレたら大ごとじゃないのか」
「まあ、そうでしょうね。だから、私は転職なんて許されないでしょう」珍しく笑い顔を見せたカトリは、また真顔になって言った。「放射性廃棄物処分場の計画には、日本政府もかかわっていたのですよね。おそらくですが、今回私がここにいるのも、そのあたりが絡んでのことだと思います。同盟国としての義務を果たすとかなんとか……」
 申し訳なさそうに声を落とすカトリの肩を、ベイカーが叩いた。
「まあ、いい。いろいろ事情はあるようだが、君の力はよくわかった。十分、我々のチームの一員として認めるよ」
 他の隊員たちが頷く。デフォーももちろん、大きく頷いた。
「おいおい、士官だったのかよ。やべえな」ロバーツの呟きが聞こえた。
 そして、ランシング教授は、パキスタン軍の銃弾の破片で負傷していた。矢傷もあり、満身創痍といった様子だ。さすがに痛むらしく、モルヒネの注射を打たれて横になっている。
 取り囲むデフォーたちを見上げ、教授は言った。
「君たちは、大変なことをしてくれた。いったい、どう責任を取るつもりなんだ。こうしている間にも、放射性廃棄物はたまっていく」
 まあ落ち着いて、という仕草をしたベイカーが答えた。「それは、今はわかりません。もちろん我々にも責任はあるのですから、考えていかねばならないでしょうが……。ただ、秘密のうちに決めて、人の家の庭に捨てていいものではないんじゃないですか?」
 教授は、顔をそむけて言った。
「ここに、置いていってくれ。私は、私の信じる正義に殉ずる。墓標に連なる覚悟はあると言っただろう」
「そうはいきません。あなたに信念があるのはよくわかったが、この世に絶対の正義なんてものはないんだ。あまり凝り固まるのは、身体によくないですよ」ウェストが言った。
「俺たちは何も、正義の味方を気取ってるわけじゃない。だいたい今までだって、よそ様の国に潜入してあれやこれやと口にはできないこともしてきたんだ」ロバーツが、狡猾そうな表情をつくる。たぶんそれは、わざとだろう。
 ベイカーは、満足そうに言った。
「そういうわけだ。我々は偶然発生した氷河の崩落から、調査隊を間一髪救出した。パキスタン軍が誤射してきたが幸いにして戦死者はなし。なお、出向の自衛隊員は相手の人員に対し一切発砲していない」
 カトリが、ベイカーに深々と礼をした。
「いや、助けられたのは俺のほうだ。ありがとう」
 ベイカーと握手をするカトリの顔を見たデフォーは、なんだ、東洋人の表情もわかるようになるものだな、と妙に感心した。

7

「ああ、アネハヅルがもう来ている」ウェストが、双眼鏡を覗きながら言った。
「また……鳥見てんのかよ」座り込んでそう言うロバーツは、苦しそうだ。今になって高度障害の症状が出てきたらしい。ああ畜生、とぶつぶつ呟いている。
「このあたりは、ユーラシア大陸とインドやアラビア方面を行き来する渡り鳥のルートに位置してるんだ」
「鳥には国境がないとか言い出すんじゃないだろうな……。あのな、俺たちがそういうこと言うのは、自己否定だからな」
 ははは、違いない、と笑ったウェストは双眼鏡から目を離し、ロバーツの顔を見て言った。「なんだ、ひどい顔してるな。大丈夫か」
「うるせえ、この顔は生まれつきだよ」
「しかしお前、大活躍だったじゃないか。お前があのパソコンを解読してなけりゃ、どうなっていたことか」
「何だよいきなり殊勝な……ま、お前も戦死しないで済んだな。早いとこ大学でもどこでも行っちまえ」
「もうちょっと、お前らと付き合うことにするよ」
「魂胆はわかってるぞ。まだ世界中の鳥を見てないからだろ」
 さてな、とウェストははぐらかすように笑った。
 太陽は西空へ移り、純白の峰々へオレンジ色を添え始めている。
 パキスタン軍が完全に撤退するのを見届けた頃、迎えがやってきた。アフガニスタンのアメリカ軍基地から、国境沿いに空中給油を受けつつ飛来した空軍特殊作戦コマンドのCV‐22オスプレイだった。ヘリでは上がってこられない高度でも、回転翼軸の角度を可変させて普通の航空機のように飛行できるオスプレイは、ぎりぎり到達できる。
 意気消沈した科学者たちとともにチーム9の全員が乗り込むと、オスプレイはすぐに離陸した。小さな窓越しに、氷に埋もれた谷の向こうの盆地と、その周囲の様子が見下ろせた。
 デフォーの隣で、食い入るように窓外の景色を見ていたウェストが言った。
「なるほど……。盆地を含む一帯へは、あの谷しか入口がなかったようだ。険しい山脈と深い谷で、他の地域から隔絶されているんだな」
「まるで、『ロストワールド』だな」ベイカーが、自らも窓の外へ視線を送りながら言った。
「ええ。一見、不毛の地ですが、崖や氷河の張り出しの下には高山植物が自生している場所もあるようです。飛行機や衛星からは観測しづらい、閉鎖された特殊な生態系が維持されているんでしょう」
「あれを見てください!」
 カトリが指さす先、霧が覆い始めている盆地の隅に、数人の人影が見えた。例の、先住民だろうか。動物の毛皮のような服を着て、去り行くオスプレイを見上げている。何人かは、身長が他の者に比べてかなり低く、子供のようだ。家族なのかもしれない。
 そして、彼らは積まれた石を囲んでいるように見えた。その石の上には、小さな黄色いものがあり──。
 オスプレイが機体の向きを変え、その姿は窓から消えた。
「彼ら、いったい何者だったんでしょう」デフォーは呟いた。
「やっぱり、イエティじゃないか」ロバーツが苦しそうな中にも、相変わらず小狡そうな笑みを浮かべて言った。
「もしかして……デニソワ人だったんじゃないか?」
 ウェストが急に大声を出した。
「なんですか、それ」
「我々、ホモ・サピエンスと同じヒト属だよ。四十万年以上前に現生人類の祖先から分岐し、ネアンデルタール人よりも我々に近いとされている」
「そんなの、とっくの昔に絶滅したんじゃないのか」と、ロバーツ。
「デニソワ人が分布していたとされるのは、このあたり、中央アジアだ。ネアンデルタール人だって目撃談が絶えないんだ。可能性はあるかもしれない」
「なんだよ、イエティは信じなかったくせに……。まあいいや、それなら、ますます楽しいな」ロバーツが悪人面をますます歪めて笑った。
「聞いたことがあります」カトリが言った。「デニソワ人やネアンデルタール人は、私たち現生人類と共存していたそうですね。必ずしも、現生人類が優れていたから生き残ったわけじゃない。それは、単に偶然だった可能性があるとも聞きました」
「事によっては、あそこにいるのは俺たちだったのかもしれませんね」デフォーは言った。その時、カトリが皆に気取られぬよう、窓の外へ手を合わせたのが見えた。さっきの黄色い花を、彼も見ていたのだろうか。
 氷に閉ざされた、はるかな祖先の時代、運命のめぐりあわせがほんの少し違っていたのなら。そして彼らの、墓に花を供える心が自分たちよりもまさっていたのなら。百万年後の誰かには、もっと違うものを遺せたのではないか?
 そして、百万年ののち、時の彼方で待つのは、また違う者だろう。現生人類とて、所詮はこの間氷期というわずかな期間、繁栄を許されただけなのかもしれない──。
 再び目を向けた窓の外は、ただ白く深い霧が流れていくだけだった。
(了)
受賞作紹介
斉藤詠一『到達不能極』

第64回江戸川乱歩賞受賞作

斉藤詠一『到達不能極』

構成力が群を抜いていた――池井戸潤氏(選考委員)
このラストが私は好きです――辻村深月氏(選考委員)

2018年、遊覧飛行中のチャーター機が突如システムダウンを起こし、南極へ不時着してしまう。ツアーコンダクターの望月拓海と乗客のランディ・ベイカーは物資を求め、今は使用されていない「到達不能極」基地を目指す。
1945年、ペナン島の日本海軍基地。訓練生の星野信之は、ドイツから来た博士とその娘・ロッテを、南極にあるナチスの秘密基地へと送り届ける任務を言い渡される。

現在と過去、二つの物語が交錯するとき、極寒の地に隠された〝災厄〟と〝秘密〟が目を覚ます!

著者プロフィール
斉藤詠一『到達不能極』

斉藤詠一 さいとう・えいいち
1973年東京都生まれ。千葉大学理学部物理学科卒業。現在神奈川県在住。2018年『到達不能極』で第64回江戸川乱歩賞を受賞。